旅人の歯医者日記タイトル
旅人の歯医者日記

第1章 はじまりの虫歯
#1-3 初診察

1997年4月

奥歯に大きな穴が開いてしまい、慌てて歯医者に駆け込みました。(*第1章は全13ページ)

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5、歯医者へ

公衆電話のイメージ(*イラスト:acworksさん)

(*イラスト:acworksさん 【イラストAC】

今日中に歯医者に行こう。そう決めたのだが、歯医者に行くには健康保険証が必要になる。まずは保険証の確保。それが最優先だ。すぐに大学の公衆電話から自宅に電話した。

不安になりながら受話器から聞こえてくる呼び鈴を聞いていると、母親が電話に出た。よかった・・・。家にいた。

母親に、歯医者に行くために保険証が必要な旨を伝え、もし外出するなら保険証を食卓テーブルの上に用意してくれるよう頼んだ。これで一安心。少し気分が落ち着いてきた。

ちなみに、この頃はまだ携帯電話は高嶺の花で、PHSがぼちぼちと学生の間で広まりつつあるといった状況だった。

活発に行動したり、連絡し合うのが大学生。校内のあちこちにこれでもかというぐらい公衆電話が設置されていたというのも、現在から考えると懐かしい風景になるだろう。

健康保険証のイメージ(*イラスト:Designers solutionさん)

(*イラスト:Designers solutionさん 【イラストAC】

憂鬱な気分で午後の授業を受け、授業が全て終わると、すぐに家に戻った。

家に戻ってみると、母親は在宅していた。「歯が悪いの?」と聞かれたので、「歯に穴が開いたみたいだから、歯医者で治してもらってくる。」と伝えると、「私が行っているところは評判がいいのよ。」と、近所の歯医者を紹介してくれた。

旅で安宿を決めるように、ぶらぶらと駅周辺の商店街へ行き、適当によさそうな歯医者に入ろうと思っていたので、それは助かる。

早速、今日診てもらえるか電話してみると、1時間後に来てくださいとのこと。これで目的地と時間が決まった。後は覚悟を決めて行くだけだ。

歯医者のイメージ(*イラスト:Cranberryさん)

(*イラスト:Cranberryさん 【イラストAC】

その1時間後、不安な面持ちで、歯医者の自動ドアの前に立っている私がいた。いきなり歯を抜かれることはないよな・・・。まだそういった心の準備はできていない。

最悪の場合でも、今日は初日ということなので、日本人らしくなあなあな感じの処置で終わって、次回という事になるんじゃないかな・・・。

いやいや、そんな悠長なことを言っている場合ではない。「これはほっておくと大変です。隣の歯にまで影響を及ぼします。」ってことで、否応なしにすぐ抜かれてしまうかもしれない・・・。って、そうなったら最悪だな・・・。あ~、ほんとにいやだ。歯医者に入りたくない・・・。

いかん、いかん。歯医者の前でグダグダと考えていてもしょうがない。臆せずに前に進んでいけば、きっと旅と同じように道は開ける。少なくとも、今よりも悪い状態にはならないはず。

だいたい、ちょっと前に地球を一周してきたばかりではないか。ひっちゃかめっちゃかなインドでは、様々な困難を乗り越えながら旅をしたではないか。それに比べて、たかだか歯の治療で尻込みしていては、世界を一周してきた旅人の名折れというもの。

自信を持つイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

そうだ俺は世界一周してきた旅人なんだ。そう考えると、少々のことなら何でもこなせるような気持になる。なかなかいい暗示だ。これは使えるかも・・・。

歯の治療上等。どんとかかってこい。とまでは思わないものの、覚悟を決め、少し緊張しながら歯医者の自動ドアを開けた。

6、歯医者の受付

歯医者の待合室のイメージ(*イラスト:ぶんぶんうまさん)

(*イラスト:ぶんぶんうまさん 【イラストAC】

歯医者の自動ドアを開けると、普段嗅ぐことのない強い消毒臭がツンと鼻をついた。

今ではあまり匂いのしないエタノール(アルコール)や、グルタラール製剤などが消毒の主流になっているようだが、昔の病院や学校の保健室など、病院と名が付くような場所の多くは、クレゾール液(ホルマリン)を消毒に使っていたので、独特の鼻に付くの薬品臭がしていた。

口に入れる診察器具を扱い、治療でも薬品を多く扱う歯科医院では、特に薬品の匂いがきつかった気がする。だから大袈裟に言っているのではなく、本当に歯医者に入ると、クラっとするぐらい強烈な匂いがしていた。

そして、この独特で強烈な病院臭を嗅いでから、「自分が病院に来てしまったんだ。」「日常とは別の世界の扉を開けてしまったんだ。」「辛い治療が始まる。」と、頭の中が不安モードに急降下。

急降下のイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

扉を開ける時にあった「治療を頑張るぞ!」といった覚悟は、扉を開けた瞬間にあっけなく崩壊してしまった。

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このまま回れ右をして立ち去りたい・・・。そう思ったものの、受付のお姉さんと目が合ってしまったので、今更引き返すわけにはいかない。

電話で予約した旨を弱々しく伝えると、「今日はどういった症状でしょうか?」と、質問をされ、「あの~虫歯ができてしまったようで・・・、今日、ボールペンでいらっていたら奥歯に穴が開いてしまったような感じで・・・。」と、歯切れ悪く答えた。

笑顔の歯科衛生士のイメージ(*イラスト:メグメグさん)

(*イラスト:メグメグさん 【イラストAC】

虫歯の治療で歯医者を訪れると、「歯を磨かないだらしない人間」というレッテルを貼られているような気がして、えらく腰が引けてしまう。

小学校の時から、「歯を磨いていないから虫歯になるんだ。」「虫歯ができるのは歯を磨いていないからだ。」と、学校の先生などに刷り込まれて育ってきたら、交通違反で出頭するような気持ちになってしまうのもしょうがないと思う。

だから歯医者の人のやさしい笑顔の裏にも、「この人は歯を磨かないようなだらしない人間だ。歯を磨かないから虫歯になったんだ。」などと、無意識のうちに感じ取れてしまうのだ。

本音と建て前のイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

この後ろめたさが私にとって重要で、歯医者への道のりを遠くしている原因の一つだった。単に「虫歯ができました。」と、普通にやってくればいいだけのことなのだが、このような感覚が他の医者と一番違う気がする。

と、もっともらしく能書きをたれるのだが、そもそも普段から歯を磨いていなかったから、後ろめたさや罪悪感を感じるのであって、普段からきちんと歯を磨いていれば、罪悪感の呪縛で歯医者への道のりが遠くなることもなかったはずだ。

7、初診察

歯医者の診察椅子のイメージ

(*イラスト:acworksさん 【イラストAC】

受付で問診票を書いた後は、あまり待つことなく診察室に通された。診察室は広く、ロボットアームが沢山ひっついているような歯科独特の診察椅子が5つも並んでいた。そこそこ規模の大きな歯医者になるようだ。

診察椅子は、一つをのぞいて患者が診察を受けていた。けっこう繁盛しているんだ。きっと腕の方もいいに違いない。何より他に患者がいるというのは心強いかも。少し緊張が和らいだ気がした。

空いていた最後の椅子は私の席で、係の人がその椅子の前まで案内し、座るように言ってきた。

でもこの椅子・・・、いざ座ろうとなると、「待っていたぜ。虫歯野郎。さあ処刑のはじまりだ!」といった禍々しいオーラを放っているように感じる。

座ったら、「ガシャ」と手足などが固定され、電気でビリビリ・・・。ってな事はないにしても、これから歯を抜くような大治療になるかもしれない・・・といった不安な気持ちから、あらぬことまで想像し、恐る恐る座っていた。

電気ビリビリのイメージ(*イラスト:ドンベイさん)

(*イラスト:ドンベイさん 【イラストAC】

体をこわばらせながら診察椅子に座ると、衛生士の人がエプロンを掛けてくれ、診察準備が完了。「先生が来るまで少々お待ちください。」と、他の患者のところへ行ってしまった。

ふぅ~。ようやく一息。診察椅子に座るだけで、緊張する。かなり力んでいたようで、おでこに手を当てると、もううっすらと汗をかいていた。まだ治療が始まっていないというのに・・・、先が思いやられる。

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先生は他の患者の治療をしているようで、なかなかやって来なかった。急遽予約を入れてもらったので、しょうがないといったところだろう。

すぐに治療が始まったほうが気分的に楽なのか、ちょっと間があった方が気分的に楽なのかはわからないが、こうやって診察椅子に座っていると、徐々に歯医者の雰囲気に慣れてきて、不安な気持ちが落ち着いてきた。

治療を受ける子供のイメージ(*イラスト:とりほさん)

(*イラスト:とりほさん 【イラストAC】

思えば、歯医者の診察イスに座るなんて、小学校の時以来になるのかな・・・。いや、中学生でも行ったな。あれ、高校生だったっかも・・・。どっちだったかあまり覚えがない。

でも、その時の治療で強烈に痛い思いをして、二度と歯医者には行かないぞ!と強く思ったのは覚えている。

今回はかなり酷そうだから、痛さも強烈なんだろうな・・・。治療を受けたくないな・・・。と思うものの、穴の空いてしまった歯をほっておくわけにもいかない。いい年した大学生なんだから、覚悟を決めよう。もう敗者に来てしまっているのだし。と、諦めとか、悟りの境地になっていた。

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昔のことを思い出しながら、周りをきょろきょろと眺めていると、男の先生がやって来た。年齢は30後半ぐらいだろうか。体格がよく、肌は日によく焼けていて、スポーツとか、アクティブな感じがするイケメンだ。

今、世間ではサーフィンが流行しているので、休日にサーファーをしている歯医者さんという表現が一番しっくりくるのだが・・・、私の頭の中でイメージしていた歯医者の先生とは、随分と雰囲気が違っていて、少し面食らってしまった。

ただ、母親や母親に紹介した友人がここの歯医者を絶賛している理由は、治療を受ける前になんとなく理解できてしまった・・・。

サーファーのイメージ(*イラスト:食べられる前頭葉さん)

(*イラスト:食べられる前頭葉さん 【イラストAC】

「初めまして」「よろしくお願いします」といった社交的な挨拶を交わした後、今日はどういった症状で訪れたのかを聞かれた。

だいぶん前から奥歯に違和感があったこと。そして今日、あまりにもむず痒く、ボールペンで歯を突っついたら、歯の横に穴が開いてしまったことを伝えた。

学校で友人に、家で親に、歯医者に来て受付の女性と、そして先生にと、一日に何度も「ボールペンで歯を突っついて、穴が開いた・・・」という話を繰り返していると、自分という存在がどんどんと間抜けに感じてくる・・・。

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私の説明が終わると、「わかりました。じゃ、確認します。」と言い、診察が始まった。

診察椅子が倒され、顔に照明が当てられた。先生が「口を大きく開けてください。」と言い、口を大きく開けると、ごにょごにょと問題の患部の確認が行われた。

そして口を開けて10秒もしないうちに、「どうしてここまでほったらかしにしていたのですか?」と、お決まりのような小言を言われてしまった。

小言のイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

「歯医者が嫌いですから」とか、「歯医者に来るのが面倒臭いから」などとはさすがに言えず、「大学が忙しくて・・・へへぇ」などと、お茶を濁すように答えるしかなかった。

このように言われたら、こう答えるしかないではないか。というか、身動きの取れない状態で、このような皮肉交じりの質問をされる方の身にもなってくれよ。

「もう、だから歯医者に来るのが嫌だったんだよ・・・。」と、心の中で叫んでいた。

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