第2章 折れてしまった前歯
#2-16 都市伝説
1999年8月~9月
親知らずを抜歯した体験を自慢気に話していると、とんでもない真実を知らされ、恐怖するのでした。(*第2章は全17ページ)
41、抜歯を終えてみて
歯を抜くと、抜いた場所から血が溢れるように出てくる。というのは少々大袈裟な表現だが、正常に生えている歯を抜くと、それなりに出血することになる。
人間は傷を負えば、血が出る。余程深い傷でない限り、唾を付けておいたり、絆創膏を張っておけば、そのうち傷口がふさがって治る。というのが、一般的だ。
歯を抜いた場所も、唾液が殺菌してくれるので、ほっておけばすぐに傷口がふさがって・・・。と、素人的には考えてしまうのだが、そうでもなかった。
口の中が特殊なのは、強烈な分解能力を持つ唾液が常にあること。唾液で傷口が固まってくれないので、血が止まりにくい。歯を抜いて、そのまま放置すると、血がダラダラと流れ続け、下手したら貧血を起こしてしまうこともあるとか。なので、すぐに脱脂綿を詰め、それを噛むことで止血を行う。
歯医者で親知らずを抜歯してもらった後は、その止血用の脱脂綿を噛みしめながら、真っ直ぐ家に帰った。
家に帰ってみると、まだ麻酔が効いているようで、抜歯した箇所に痛みはない。先生から、「麻酔が切れたら強烈に痛みを感じると思います。その場合はすぐに痛み止めを飲んでください。」と言われたが、痛み止めのお世話になるのは、まだ先になりそうだ。
奥歯の脱脂綿は、だいたい20分程度、強めに噛んでいれば、血は止まるとのことなので、頃合いを見計らって取り除けばいい。ただ、まれに血が止まらなく、流れ続けてしまう人もいるとの話。もしそうなった場合は、別の病気の疑いもあるので、すぐに来てくださいとも言っていた。
家に帰ってから10分ほど経った。抜歯してからは、もう30分は経っている。そろそろ大丈夫だろう。恐る恐る脱脂綿を取り除いてみると、少し口の中に血の香りが広がって気持ち悪く感じたが、血はちゃんと止まっていた。体調や気分も悪くない。まあ順調な経過となるだろうか。
強くうがいをすると、せっかく固まったかさぶたが剥がれ、また血が出てくる恐れがあると言っていたので、かるく口をゆすいで落ち着くことにした。
しかしな・・・。歯を抜いたくぼみから、血が噴水のように吹き出し、それが止まらなくなってしまう様子なんて想像すると、恐怖そのもの。
アニメなどではよくある展開となるが、そんな事が自分に起こったら、きっとパニックになってしまうだろう・・・。想像するだけで、貧血を起こしてしまいそうだ。そうならなくて、本当によかった。
親知らずは少し外側に飛び出るような感じで生えていたので、あごを動かしてみたり、歯をかみ合わせてみたりすると、ほっぺの辺りが妙にさっぱりと感じる。
抜く前までは、そこまで邪魔といった認識はなかったが、実際になくなってみると、やっぱりというか、けっこう邪魔な存在だったようだ。
今のところ歯を抜いたことで奥歯に痛みは生じていないし、前歯にあった痛みも和らいだし、口の中もさっぱりした。それに辛い治療に耐えたという満足感が合わさり、抜いてしまった親知らずには悪いが、現在の心境は、悪いおできを取った後といった感じで、とても晴れ晴れした気分だった。
42、都市伝説
勝てば官軍とはよく言ったもので、あのペンチでグリグリと歯を抜く恐怖体験を、友人や知り合いに自慢したくてしょうがない。
文化や風習の違う海外で、強烈なカルチャーショックを体験したとか、困難な場面に遭遇し、言葉が通じないながらに無事に解決した・・・といったことを、人に話したくなるのと同じ感覚だ。いわゆる武勇伝になる。
という事で、翌日、突然会社を休んだ正当性を含め、仕事場で会う人会う人に、「ペンチで親知らずをぐりぐりと抜いたんだぞ!」「拷問のような治療に耐えたんだぞ!」といった体験談を、ちょっとばかり足を付けて話すと、みんな口々にその場で抜いてもらったことに驚いていた。
「えっ、どういうこと・・・」驚かすつもりで話したのだが、予想外の反応に私の方が驚いてしまう。聞くと、なんでもみんな1回診察を受けてから、万全の態勢で歯を抜いている。
「親知らずを抜くのは、命にかかわるほど危険な事なのよ。私が歯を抜くとき、そう先生に言われたのよ。」と、教えてくれた女性社員もいた。
あまり深く考えず、痛いし、邪魔だからと、無理を言って親知らずを抜いてもらったのだが、そんなに危険なことだったのか。よく考えれば歯を抜くってのは、身体にはよくないよな・・・。昨日はめちゃくちゃ疲れたし・・・。でも、命にかかわるほどの事だろうか・・・。
そういえば・・・。先生に「すぐに抜いてください」と言った時、ためらった返事や仕草をしていたな。予約なしの飛び入りでやって来たのに、治療時間がかかるようなことをやらせるな!ってことだと思っていたのだが、こういう危険性があったからだろうか。今振り返ればそんな気もしてくる・・・。
命に関わるほど危険だと知っていれば、もっと違う対処をしていたのに・・・。無知とは怖いものだ。
もしかして体調が悪くなったりしないだろうか。その話を聞いてからは、とめどもない不安を感じるのだが、今日は会社が終わった後、歯医者へ行き、歯を抜いた箇所の異常がないかを診てもらうことになっている。なんでも歯を抜いた場合は、必ず翌日に検査する決まりになっているとか。
何かあったとしても、それまで耐えればいい。この後、先生に診てもらえる・・・と思うと、不安も和らいでいった。
こういう不安な事態が発生したら、インターネットで調べればいい。グーグルで「抜歯」「危険」「死ぬ」と入力して、検索・・・。というのは、もうちょっと未来の話になる。
この年、1999年は、ようやく一般的にインターネットが普及し始めたころ。まだ電話回線での接続が主流で、ISDNがボチボチと流行りだしていた。
アナログの電話回線を使ってのインターネットは、通信速度が遅いし、インターネットか電話のどちらかしかできないので、インターネット中に電話がかかってくれば、接続が切れるといった不便なものだった。
それ以上に厄介なのが、通信費が高いこと。インターネットも電話と同じ扱いで、普通の電話料金(3分10円)と同じだけかかっていた。つまり1時間ネットにつないでネットサーフィンしたら、1時間分の電話料金がかかるということ。
なので、電話料金節約のために小刻みにページが表示されたら回線を切ってとか、夜中のテレホーダイ時間になるのを待って、コソコソとインターネットをやっていたものだ。
このインターネットの聡明期は、日本で一番の検索エンジンであるヤフーで検索しても、ヒットするのはアングラな情報が多かった。
「親知らずの抜歯」と調べても、なかなか歯が抜けなくて苦労した体験とか、歯が途中で折れて血まみれになった体験談などといった、個人の壮絶な体験談や恐怖体験、また出所の分からない怪しい都市伝説ばかりが出てきた。
まともな情報というか、現在のような専門家が監修している専門的なサイトはほぼなく、あっても難しい論文調の文章でびっちり埋め尽くされているページばかり。
この頃は、誰でも手ごろに使えるブログもまだなかったので、情報発信をできるのはPCが扱え、ホームページの製作ができることが前提となり、個人が気軽に情報を発信する事はできなかった。
なので、サイトを持っているのは、マニアックな人や新しものの好きな人たち。収益とか考えることもなく、趣味的な感じでプログラムを勉強しながらページを作成していた。
通信速度が遅いというのもネックとなっていて、ファイル容量の大きな写真は、表示されるのにとんでもなく時間がかかっていた。
例えば電話回線の場合だと、小さいものを数点載せただけでも、全部表示されるのに分単位でかかるといった状態。あまりにも表示に時間がかかってしまうと、途中で離脱する人が多くなるので、現在のように写真やイラストをたくさん載せたページというのは作ることはできなかった。そもそもデジカメもまだ一般的ではなかった。
こういった貧弱な通信状況だったので、教科書的なページを作るよりも、気軽に自分の自慢できる体験や面白い情報を公開している人がほとんどだった。
見る側も情報の正確さよりも、面白い話の方が重要で、いかにも怪しい都市伝説的なネタを楽しんだり、エロのためなら電話代は惜しまない男どもが、表示に時間のかかるエッチなサイトを楽しんでいた。こういった楽しみ方がインターネットの醍醐味だった。
そんなアングラな状態だったので、普通の人はインターネットで医療などといった大事なことを調べたりはしなかったし、調べたとしても話し半分、いや、それ以下で見ていた。
その一方、今回のように知った人から、「先生が命の危険があるって言っていたよ・・・」と伝えられると、素直に、「まじかよ。そりゃ、やばい。」となっていた。経験者の話は役に立つとは言うが、この頃は今の比ではなく、とても重要な位置づけだった。
とはいえ、それ本当なの?と疑問に感じることも多々あった。でも、この時代や、もっと前のインターネットのなかった時代は、手間をかけて図書館にでも行かないと、専門的な情報は確かめようがなく、「ほんとかよ・・・。嘘っぽいな・・・」と思いながらも、「実際に体験していることだし・・・」と納得するしかなかった。
他人から聞いたビックリするような話に対し、真剣に一喜一憂していたことも、この頃ならではのこと。今思えばとても懐かしい思い出になる。
第2章 折れてしまった前歯
#2-16 都市伝説 #2-17 雲行きの怪しい結末 につづく