旅人とワンコの日々
世田谷編 2005年(7/8)
世田谷(砧公園)での犬との生活をつづった写真日記です。
10、関東最東端ツーリング(2005年9月19日)

(*イラスト:CNたいらさん 【イラストAC】)
9月頭に父親がガンの手術を受けた。術後は良好で、無事に退院し、今ではほぼ平常の生活に戻っている。おかげで父親の代わりに行っていた朝の犬の散歩から解放され、朝が楽になった。
それよりもうれしいのが、気兼ねなく家を空けてツーリングに行けるようになったこと。今年はレース活動に力を入れていたので、あまりツーリングに出かけていない。
友人を誘って出かけるか。先日はレースに出れなくて落ち込んでいたし・・・。「サーキットばかり走っていたら、ラップタイム鬱になってしまうぞ。たまにはツーリングに行こう。」と友人を誘い、日帰りのツーリングに出かけることにした。

*国土地理院地図を書き込んで使用
目的地は千葉県銚子市の犬吠埼。利根川の河口付近にポコッと飛び出るようにあるのが犬吠埼で、ここは離島を除いた関東最東端となる。
関東近辺には三浦半島、房総半島、伊豆半島といった有名な半島があり、その先端となる最南端は訪れているが、この関東の一番東端の地へは今まで訪れていなかった。
旅人と名乗るには有名な観光地はもちろんだが、こういった旅心をそそるような最〇端とか、日本一といった場所も押さえておかなければならない。

世田谷からなので、東京の中心を横切り、水戸街道へ。そしてまずは友人が訪れたことがないというので、柴又の柴又帝釈天に立ち寄った。
ここの参道には、柴又名物の草団子屋、お土産屋、飲食店といった趣きのある店がずらっと並んでいるのだが、まだ朝早い時間だったので、そのほとんどが開いていなかった。

少し閑散とした雰囲気だったが、ここは歩くと独特の旅情を感じる。というより、国民的な映画「男はつらいよ」の舞台になっているので、映画の旅情を思い出し、旅心を刺激するといった感じなのかもしれない。
冷静な目で判断するなら、町並自体はもの凄く情緒を感じるわけではない。ちょっと昭和の雰囲気を感じる賑やかな参道というのが、的を得ていると思う。


でも映画のイメージは絶大で、映画の舞台にやって来たという満足感もあるが、主人公が旅から帰ってきた場面と重なり、なんかこう・・・、長旅から家に帰ってきたときに感じる、胸が一杯になるような気持ちというのだろうか、歩いていると感傷的な気分になってくる。とても不思議な情緒に浸れ、とても好きな場所だ。
ちなみに私のバイク、初代も、今乗っている2代目にも、帝釈天の交通安全のお守りを取り付けている。バイクを購入した後に、どこへ行こう。そうだ柴又に行ってみよう。と、柴又帝釈天に向かって風が吹く。そして、せっかく来たのだからバイクにお守りを付けよう・・・となるのだ。

水戸街道、国道6号線が利根川と交差するところで、道を逸れ、今度は利根川沿いを下っていった。
利根川は、昔から水運が盛んで、川沿いには水運で栄えた町が幾つかある。その中でも江戸優り(えどまさり)といわれるほど栄えていた佐原が次の目的地。


ここには現在でも多くの見世蔵が街道と運河沿いに残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。東京近辺では、こういった町並みは川越か、佐原か、となる。
佐原の良さは、今もなお古い町並みが商店として利用されていて、生きた町並みになっていること。そして運河も生きていて、観光船が運行されている。運河から眺める町並みというのも、普段味わえない情緒になる。

佐原から東へ数キロのところに、関東地方を中心に全国展開している香取神社の総本社、香取神宮がある。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社になる。らしい・・・。実はあまりよく知らない。
名前をよく聞くし、観光案内に大きく載っているから訪れてみるか・・・といった感じで訪れてみたのだが、総本社だけあって境内がとても広く、楼門、本殿といった建物も荘厳で素晴らしかった。
汗ばむ陽気の中、広い境内をしっかりと汗をかきながら歩いたかいがあったというもの。訪れる前はあまり興味を示していなかった友人も、出発するときには満足顔になっていた。

銚子の町で少し遅い昼食をとった後は、いよいよ犬吠埼へ。半島のどこが最東端になるのか分からないが、真ん中付近のポチっと出っ張っている部分に犬吠埼灯台があり、犬吠埼といえばここを差すことが多い。
ということで、犬吠埼灯台を目指した。犬吠埼灯台は白色塔形の煉瓦造灯台で、明治7年に初点灯した歴史ある灯台になる。その歴史的価値から国の重要文化財となるのだが、それはもうちょっと未来の話となる。
青空に映える白い灯台もいいが、犬好きとしては、犬が吠える岬という犬吠埼という名も気になる。調べてみると、源義経の愛犬だった「若丸」が岬に置き去りにされ、義経を慕うあまり7日7晩鳴き続けたとかなんとか。

(*イラスト:めもっ太君さん 【イラストAC】)
なんと義経が・・・と、そのいわれに感動する人もいるとは思うが、こういった話を疑わずに信じてはいけない。最近世間を賑わせているオレオレ詐欺の鴨にしてくださいというようなもの。
いったい義経は何人いたんだと言うぐらい関東には義経、或いは頼朝の伝説が多い。関東の観光地や有名な寺社を訪れると、恥ずかしげもなくこういった伝説を紹介した案内板がある。日本人は本当によく適当な嘘をつく。そしてそれを簡単に信じる。
この犬吠埼の南から始まる九十九里浜も、源頼朝が一里ごとに矢を浜に刺していき、その数が99本だったからといった謂れがある。箔をつけるために何でもかんでも源氏にルーツを求めるというのも、どうかと思ってしまう。

(*イラスト:simplease20さん 【イラストAC】)
ちなみにここ犬吠埼は、日本の本土にある平地で一番早く初日の出を見ることができる場所になり、初日の出の町として売り出し中である。
簡単に書くと、一年で一番太陽が低い冬至から元旦にかけては、地軸の関係で南の方が日の出時間が早くなり、日本本土最東端の北海道納沙布岬よりも、本州最東端の岩手県トドヶ崎よりも、犬吠埼の方が早くなる。平地でとあるのは、標高が高くなると日の出時間が早くなり、ここよりも遥か西にある標高3776mの富士山の方が数分早いから。

ここ犬吠埼を目的地に選んだのは、関東最東端制覇という目的が一番であったが、もう一つ、ここに設置されている「犬吠埼ロカ岬友好記念碑」を訪れたかったからだ。
ロカ岬といっても「えっ、どこにあるの?何が有名なの?」という人がほとんどだと思う。歴史的に何かあったとか、もの凄い絶景が見られるとか、映画などの舞台になった岬ではなく、ポルトガルの首都リスボンの少し西、大西洋に少し飛び出た岬になる。
何の変哲もなく、ありきたりな岬というと語弊があるが、ここはユーラシア大陸の最西端になる。

*国土地理院地図を書き込んで使用
日本を出発し、ユーラシア大陸を西に向かって旅する旅人が、とりあえず目標にするのがポルトガルのロカ岬。ある者は無事にたどり着き、ある者は途中で脱落し・・・ってな感じで、全ての旅人がたどり着くわけではないが、大陸を横断し、たどり着いたときの感動はひとしおではないようだ。
私もユーラシア大陸横断を試みたのだが、結局、ロカ岬までたどり着くことはできなかった。ロカ岬にたどり着くよりもやりたいことが途中で見つかったので、たどり着けなかったことに悔いはないのだが、たどり着いていたならどんな気分だったのだろう・・・と思う時がある。

(*反射率 0.39さん 写真AC)
その大陸横断しているときに、「銚子の犬吠埼にロカ岬との友好碑があるのですよ。両方訪れるととても感動的ですよ。」と、出会った旅人が自慢気に言っていたのをふと思い出し、そうだ、行ってみよう。と思い立ってやって来たのだが、案の定というか、ロカ岬へ訪れたことのない私には深い感動はなかった。
でも、ユーラシア大陸を横断した人、これからする人にとっては、訪れておいて損のない場所だとは思う。

ちなみに、一緒に訪れたのは、私の旅行中に旅の様子をリアルタイム旅行記としてホームページに載せてくれていた友人。一緒に訪れることで、果たせなかったゴールを一緒に踏んだぞ!ってなイメージでやって来た。
これでめでたくゴール・・・になるかどうかわからないが、旅の終わりは新たな旅の始まりというように、ここを訪れたことで無性に実際のロカ岬を訪れたくなってしまった。
まあ、今度は時間をかけてわざわざユーラシア大陸を横断したり、前回の続きからといった事をしなくても、飛行機で一気にポルトガルまで飛んでいけばいい。よしっ、次の目的地は再びロカ岬だ。友人を誘ってみたが、「レース活動で時間も金もない!」と間髪入れず断られてしまった。
11、締めくくりの6時間耐久レース(2005年11月3日)

私を含めて何度か転倒し、傷だらけになってしまった。
でも戦ってきたマシンといった感じで、味がある。
友人たちと取り組んでいたスポーツランドやまなしのSLy チャレンジバイクレースも、いよいよ最終戦。あっという間に最終戦になってしまった・・・といった心境だ。
7月の第三戦では、後輩Kの代わりにライダーとして初めてレースに出走したものの、残念ながら自分のミスで転倒してしまい、チームには迷惑をかけてしまった。
実際にライダーとして出走してみて、走る面白さとか、緊張感、やりがいや充実感はあった。しかし、このままライダーとして走り続けるとなると、時間とお金がいくらあっても足りないと悟り、深みにはまる前にレース活動とは距離を置くことに決めた。
でも、今年のレースは昨年から友人たちと取り組んできたので、最後まで付き合うのが筋というもの・・・。いや、せっかくなので最後まで付き合いたい。
ということで、今までレースを外から客観的に見てきた経験を生かして、ライダー交代のタイミングやピット戦略を練って、少しでも順位を上げられるよう尽力することにして、監督兼ストラテジスト(戦略担当)としてチームを仕切ってみることにした。

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】)
最終戦は、なんと6時間もの長丁場。ローカルなサーキットの草レースとは思えないボリュームとなっている。サーキットとしても初の試みだそうだ。
昨年の4時間耐久では友人と後輩Kの二人で走り抜いたが、その疲労度は限界を超え、最後の方は足や手がつり、ゆっくりと走っていた。それを考えると、ライダーは最低3人必要で、4人いるのが望ましい。もし5人揃えば楽勝といったところだ。
活動のリーダーである友人に、久しぶりに復帰した後輩K、そして夏のレースに参加した後輩2人で、ライダーは4人。もしかしたら後輩Kが参加できない可能性を考慮し、友人が他の後輩にも声をかけ、もう一人参加となり、合計5人態勢で挑むことになった。
当日はライダーの家族や、その友人などが訪れ、我々のピットはお祭り騒ぎ。サーキット全体でも、出走台数が制限いっぱいの30台と、かつてないほど盛り上がりをみせ、最終戦の舞台にふさわしいものとなった。

今回のチーム戦略は・・・、一人30分交代を基本として、30分付近で転倒車がでて、セフティーカーが出動したら、そのタイミングで交代の指示を出す。足がつりそうになったらピットに向けてサインを出して早めに交代をして、転倒のリスクを減らす。2回行わなければならない給油のタイミングは走り慣れている友人か、後輩Kのタイミングで行う。などと色々と伝えたものの、作戦よりも空模様の方が問題。雨が降ってきそう・・・。
素人のレース。雨が降ったら荒れたレースになるだろうから、ペースが悪くてもコースにとどまり、生き残ることを第一にしなければならない。我々のような中団を走るようなチームは、うまくいけば順位が上がる可能性が高いが、存分にレースをしたいので、雨は降らないでほしい。

一番手は後輩K。先日みんなで練習走行に来た時に一番タイムがよかったことから、エースの第一ライダーと決まった。
レースのスタート順はくじで決まる。前回は見事に2番手をゲットしたが、今回は中吉といった感じで、30台中13番。いや、中吉ではなく、数字的に不吉。何より一番トラブルに巻き込まれそうな位置なのが不安に感じる。

曇り空で気温も低いことから、今回は特別にウォームアップ走行が5周行われ、その後スタート。他のチームと接触等がなく、無事にスタートが切れれば・・・といった感じで見守っていると、後輩Kはうまくかわしていき、第一コーナーを回るときには4、5台抜いて、いい位置にいた。

これはもしかして上位グループの中でレースができるかも。期待が膨らむものの、一周回って直線に戻ってきてみると、スタート順とあまり変わらない順位になっていて、膨らんだ期待はあっけなくしぼんでしまった・・・。

(*イラスト:K-factoryさん 【イラストAC】)
この後は監督としてピットストップの指示を出したりするのだが、気温や路面温度が低いのと、6時間耐久ということで、各チーム人数合わせで集められたライダーが多いのと、30台と出走チームも多いことから、転倒者が続出。落ち着かないレース展開となり、ピット指示も出しにくい。
更にはライダーが二巡目の交代に入ったら、雨が落ちてきて、更にレースが荒れ模様となってしまった。バイクでやって来た後輩は早めに帰りたいとのことで、先に自分の分の走行分を繰り上げて走った。
私も眼鏡をかけているので、バイクで暗くなってからの雨の走行は怖い。特にトンネルでメガネが曇ると、命の危険にかかわる場合がある。そう国道20号では長い笹子トンネルが最大の難関となる。
今回は戦略家の私に任せておきなさい。素晴らしい戦略で順位をいくつか上げてやる。と、レース前は豪語しておきながら、4時間経過したところで無責任にも途中でサーキットを後にした。
後で結果を聞くと、総周回数251周。実順位は11位。ハンデを考慮した総合順位は18位。完走23台。と、まずまず善戦。転倒が一度もなく、走りきれたのが良かったようだ。

2本目のネガが見当たらなく、昔レポートに使った小さな写真を載せています。
これにて2005年シーズンのレース活動は終了。後半からは新しくライダーも増え、チームに活気が出てきた。この勢いに乗じて、来年こそは表彰台を!と、友人は一段と張り切っている。
とはいえ、人が増えるといろんな面でメリットがあるのだが、逆にデメリットもある。真剣にやっている人と、気晴らし感覚でやっている人が混じると、温度差というか、熱量の違いというか、また別の問題も起きてしまうので、チームとして考えると、少し難しくなるだろう。
私はというと、一回しか走っていないけどライダーからは引退した。友人からは、「私が帰った後、走っているライダー同士で指示を出し合うとグダグダしてまとまらず、うまくいかなかった。しっかりと指示を出してくれる人がいる方がチームとしてやりやすい。時間がある時でいいから、今回のようなまとめ役をして欲しい。」と言われたが、中途半端に参加して、あれこれ口を出されるのも嫌だろう。なので、これからは時間があるときに応援しに来る程度にしようと思う。
世田谷編 2005年(7/8) 2005年(8/8)につづく