旅人とワンコの日々
世田谷編 2006年(11/12)
世田谷(砧公園)での犬との生活をつづった写真日記です。
20、木曽路ツーリング(2006年11月3日)

(*イラスト:pandamamaさん 【イラストAC】)
11月3日は文化の日。今年は金曜日に当たり、金土日の三連休となった。しかも高気圧が日本列島を覆い全国的に秋晴れの予報。場所によっては紅葉が見ごろで、全国的に絶好の行楽日和となった。
お祭り騒ぎの日本列島に対して、ちょっと覚めた気持ちを抱いているのが私。現在無職中なので、毎日が夏休み状態。連休も関係なく、天気予報を眺めながら、行きたい時に旅に出ればいいといった貴族のような身分。
むしろ連休にならない方が行楽地が混雑してなくていいのだが・・・などと世間に嫌われる天邪鬼のような事を思ってしまうのだが、今はよくても、今後、辛い状況が訪れ・・・。今はよそう。暗くなってくる。

(*イラスト:ゆぽさん 【イラストAC】)
とまあ、わざわざ世間に合わせて混雑する三連休に旅をしなくてもいい立場であるのだが、友人や後輩の家などに泊めてもらうとなると、休みに合わせないといけない。で、結局、今まで通りに土日、祝日を利用してといったことになる。
もちろんこの前の東北ツーリングのように一人で気ままにテント泊をするのなら、連休や週末を避けることも可能だが、寒くて凍えるような思いをしたばかり。暖かくなる春まではテント泊はしないことにした。
えっ、まだ11月初旬。なんだ旅人のクセに根性なしと思う人もいるかもしれないが、よく考えてみてほしい。車と違ってバイクだと載せられる荷物に限りがあり、かさばる防寒対策用のものをあれもこれも載せることができない。着替えの服にしたって夏よりもかさばってしょうがない。

それに、そのままキャンプ場に直行するだけなら少々荷物が多くても我慢できるが、荷物満載の状態であちこち観光をしながら旅をするというのは、バイクの乗り降りや取り回しの時に転びそうになるし、バイクを長く離れるときには荷物の心配をしなければならない。もちろん荷物の積み下ろしが大変だし、走っている時に荷崩れの心配をしたりと、色々と大変なのだ。
そもそもな話として、安い宿に泊まればいいだけなのだが、現状は無職なので、なるべく節約できる部分は節約したい。というより、2000年にユーラシア大陸を横断した時には、ひたすら5百円程度の安宿を泊まり歩いて節約したので、どうも一人旅の時に宿に何千円もお金をかけるということに拒絶反応が起きてしまう。

*国土地理院地図を書き込んで使用
ということで、今回はちょっと前に新しいバイクを購入し、誰かとツーリングに行きたくてしょうがないという名古屋の後輩の家に2晩泊めてもらい、一緒にツーリングをすることにした。
で、せっかく名古屋まで行くのなら、中山道の木曽路を旅しながら名古屋を目指すと面白いのでは・・・と思い立ち、今までと少し旅の趣向を変え木曽路の宿場を順番に訪れる旅してみることにした。

早朝、東京から甲州街道をひたすら西進していき、塩尻に到着。今回の旅初めの地はここ塩尻。諏訪湖の西、松本の南にあり、鉄道、道路の交通の要所となっている。
塩尻には中山道30番目の塩尻宿が置かれていた。甲州街道と中山道が交差するのは一つ手前の下諏訪になるが、ここも長野方面への北国往還、善光寺道が交差する交通の要所となる。
現在では宿場町だった面影はほとんど残っておらず、本陣などの建物も火災によって消失してしまったそうだ。


塩尻を最初の目的地にしたのは、塩尻の宿場よりも縄文遺跡を見たかったため。塩尻の南には古墳時代〜平安時代にかけての大規模な集落遺跡、平出遺跡がある。
ここの目玉は博物館に展示してある縄文土器の数々。神様への供物などを入れるのに使用したのだろうか。華やかに装飾された器が多く展示されていて、縄文時代の人々のセンスの良さを感じることができる。
遺跡の方はあまり期待していなかったが、時代ごとに多くの建物が復元されていて、驚いた。意外と穴場・・・というより、もっと知名度が上がってもいい遺跡だと思う。



塩尻からほんの少し南下すると、中山道31番目の洗馬宿がある。ここも塩尻宿同様にあまりかつての面影がない。
さらに南下し、32番目の本山宿へ。ここは広い2車線道路でありながら落ち着いた風情が残っていて、バイクを走らせると気持ちがよかった。

本山宿から南下していくと、途中の道路脇に「是より南 木曽路」の碑がある。碑の通り、ここからが木曽路となる。ちなみにこの境界はかつての松本藩、尾張藩の境になるとのこと。


木曽路最初の宿は贄川宿(にえかわ)。中山道33番目の宿場になる。ここには関所が設けられていて、宿場の北側に贄川関所跡として建物が復元されている。
宿場のあった街道沿いには日本家屋が並び、落ち着いた街並みとなってはいるが、歴史を感じるような古い建物は少ない。昭和5年に起きた大火で多くが焼けてしまったそうだ。


木曽は山ばかりの土地で平地が少ない。比較的開けている木曽路も、木曽川や奈良井川が大地を削った狭い河岸に沿って続いているので、自然豊かな土地ではあるが農業を地域の産業にすることができない。
農業には適していないが、檜などの豊かな森林資源は豊富にあり、古くからこの地では漆器産業が発展してきた。その中心となるのが平沢。位置的には贄川宿と奈良井宿の間になるが、奈良井宿まで1.5キロほどと近く、双子集落的な感じになっている。
平沢の旧街道沿いを歩くと、白壁に面格子を備えた特徴ある漆器店や関連の店がずらっと並んでいて趣きがある。また、他の宿場とは違って、車が多く止まり、商店街のように生活感が漂っているところも面白く感じる。

漆器の平沢集落から少し南下すると、奈良井宿に入る。中山道、江戸から34番目の宿場になる。
奈良井宿の南には難所の鳥居峠があり、峠を控えて、或いは峠を越えた後に宿を取る旅人で栄え、その様は「奈良井千軒」と謳われていたそうだ。
木曽路一番の賑わいを誇っていた奈良井宿は、他の宿のように江戸時代後に大火に見舞われることなく、また早くに迂回する国道が対岸に整備されたこともあり、現在でも当時の面影を色濃く残した状態で宿場が残っていて、伝統的建造物群保存地区に指定されている。

実際に歩いてみると、約1キロという長い宿場の通りに古い建物がずらっと並び、圧巻の一言。訪れている観光客も多く、現在でも木曽路一番の賑わいを誇っていると言えそうだ。
ただ、ちょっと残念だったのが、ちょうど路面の工事中の最中だったこと。これでは昔の雰囲気が台無し・・・。運が悪かったと諦めるしかない。
後、気になってしまったのが、宿場の端の方では新しく古い感じの建物がどんどん建てられていたこと。その様子を見ると、観光地化まっしぐら・・・ってな興ざめするような気持ちになってしまった。

奈良井宿の横を流れる奈良井川には、地元の木曽ヒノキを使った総檜造りの太鼓橋、木曽の大橋が架けられている。芸術的な木組みで造られていて、橋の横や下を見ても木の構造が美しい。
何より橋脚がないので、虹のようなシンプルなアーチを描いていて、それが周囲の景色と調和し、とても美しく感じた。


奈良井宿の次は「お六櫛」が特産品として広く知られていた薮原宿。中山道35番目の宿場になる。ここもまた火災などにより、あまり宿場の面影は残っていない。

立て続けに36番目の宮ノ越宿へ。ここは木曽義仲が挙兵した地。宿場付近には義仲所縁のものや史跡が幾つかある。ただ、ここも火災等によってかつての面影はあまり残っていない。
もう見学した宿場は7つになる。ちょっと飽きてきたものあるが、賑やかだった奈良井宿を見た後では、小さな趣きに共感しにくくなるというもの。自然と進む足取りが早くなる。

中山道37番目は福島宿になる。現在では木曽福島という町名となり、木曽町の役場が置かれている。古くからこの地域の中心的な役割を担っていて、戦国時代には木曽氏の城下町として栄え、江戸時代には木曽代官山村氏の陣屋町として栄えていた。
江戸時代には、厳しい取り調べが行われる事で知られる福島関所がこの地に設けられていた。なんでもその厳しさから江戸の四大関所の一つと呼ばれていたそうだ。ちなみに残りの三つは、箱根、新居、碓氷になる。
現在、その関所跡には関所の建物が復元されていて、そういった雰囲気を少し感じることができる。

福島宿の街道沿いには新しい建物が多く、昔の面影はあまり残っていない。しかし、街道から外れた「上の段」と呼ばれる地域には古い建物が多く残っていて、当時の様子を感じることができる・・・ようだ。実はそれを知らなかったので、あまり趣きがないなと通り過ぎてしまった。
福島の町で感動的だったのは、川沿いの景観。旅館などが崖に密集している様子は箱庭チックというか、冒険心をあおるというか、非日常的な感じがして、とても魅力的に感じた。とはいえ、住むとなると災害が怖いし、不便な部分も多そうだ。


福島宿の次は上松宿。江戸から38番目の宿場になる。上松は、江戸時代には尾張藩が材木役所を設けるなど、木曽の木材産業の中心として栄えてきた。
宿場を含め町は発展していたようだが、戦後に起こった大火により、上町、本町、仲町、下町の4町から成る町の上町以外は焼けてしまったそうだ。
その神町を少し歩いてみたが、かつての雰囲気を部分的には感じることができるものの、全体的には当時の面影は少なかった。

上松の南の木曽川に、国の名勝となっている寝覚の床がある。と、さらりと書いてしまったが、寝覚の床と聞いて、そこに何があるのかイメージが付く人は少ないと思う。私も訪れるまで知らなかった。
寝覚の床は、木曽川によって花崗岩が侵食されてできた自然地形のことで、川にある花崗岩が大きな箱を並べたような不思議な造形をしている。江戸時代から景勝地として知られ、多くの旅人がそのユニークな景色を楽しんできたようだ。

面白い伝説も残っていて、川沿いにある臨川寺には、この地で浦島太郎が玉手箱を開けたと伝わっている。なんでも竜宮城から戻った浦島太郎がこの岩の上で昼寝をしているときに、玉手箱のことを思い出して目を覚ましたとかなんとか。
そこから寝覚の床と名付けられたとも言われていて、奇岩の中には浦島堂が建てられている。とはいえ、全国各地に似たような浦島太郎伝説が残っているので、話半分といったところだろうか。


39番目は須原宿になる。須原宿は江戸の正徳年間に木曽川の洪水で流失してしまい、一段高い場所に移転したという過去がある。移転する際に、他の宿場の良い特徴を取り入れて宿場造りを行った為、この時代の典型的な宿場の形が残っている貴重な存在となるようだ。
宿場を訪れてみると、重厚な感じで大きな屋根が重なるように家屋が重なる様子はなかなか趣がある。とはいえ、宿場のお手本的な存在という部分は、ちょっと立ち寄った観光客にはあまり感じられなかった。
まあそういった部分は専門家の領分。観光客にはそういったことよりも奈良井宿のような華やかさとか、分かりやすさの方が大事といったところだろうか。

最後に訪れた40番目の野尻宿はなかなか特徴的だった。ここは外敵の侵入を防ぐために多くの枡形が設けられ、「七曲り」と言われていた。現在でも道は狭く、くねくねと曲がりくねっている。おかげで宿場はカーブミラーだらけ。こんなにカーブミラーが多い宿場も珍しい。
この先は妻籠宿、馬籠宿と有名な観光地と化している宿場があるが、以前訪れたことがあるので、これにて木曽路の旅は終了。暗くなってきたので急いで名古屋の後輩宅を目指した。

旅は娯楽の一部。興味のある場所だけをかいつまんで旅をしがちだ。特に一人旅だと、余程のことがない限り興味のない場所をわざわざ訪れたりはしない。
私も興味のある場所を目的地にしていた。今回の木曽路の旅に当てはめると、塩尻の平出遺跡を見て、奈良井宿を見て、木曽福島を見て、時間が余ったら一度行ったことがあるけど馬籠宿に立ち寄ろうかな・・・といった感じになっていたと思う。
でも行きたくない場所・・・というと語弊があるが、木曽路の宿場巡りといった一くくりのセットとなった旅では、あまり興味がない場所も訪れることができる。順番に訪れることで、双六のような楽しみ方もできる。そしてそこで見たこと経験したことは、新しい探求や発見にもつながる可能性もある。
そう考えると、こういった一つのテーマをしっかりと旅をするのもいいものだ。一人だからこそこういった旅をすべきではないのだろうか。むやみやたらと見聞を増やすよりも有意義かもしれない・・・などと、木曽路の宿場巡りを終えて思うのだった。
とはいえ、こういった旅は心底やりたいと思うようなことではないと、なかなか行動には移すのが難しいのが実際のところ。その為には旅以外の趣味や興味の対象を持っておくことが大事となる。
世田谷編 2006年(11/12) 2006年(12/12)につづく