#2 ビザと入国審査
1997年12月、飛行機の乗り継ぎを利用して、極寒のモスクワ市内を半日ほど散策した時の旅行記です。(*全12ページ)
4、重たい扉
目が覚めると、7時を過ぎていた。ここシェレメチェボ空港の建物内は、薄暗く、ちょっと陰気な雰囲気がする。ちょっと前に読んだ落合信彦氏の政治書には、燃料の削減の為、照明を半分しか付けていないと書いてあった。
読んでいるときは、いくらロシアが財政難だといっても、国の玄関である国際空港がそんなひどい状態なわけがないだろう・・・と思ったのだが、現実にこの薄暗さを体験すると、本当に本で読んだ通りなんだな・・・といった驚きと、納得が混じった気分だった(*1997年はエコとか、節電の概念がなかった時代です)。
でもまあ、空港が少々暗かろうが、真っ暗でなければそんなに困りはしない。それよりも私にとって重要なのは、ビザが無事に取得できるかどうか。これが心配でしょうがない。
空港の照明をケチらなければならない国で、面倒な手続きごとは極力やりたくはないが、やらなければ空港内でひたすら退屈な時間を過ごすことになってしまう。頑張って挑むしかない。
もうイミグレーションオフィスは開いたかな・・・。とりあえず行ってみよう。と、イミグレーションオフィスへ行ってみるのだが、前回同様にドアは閉まっていた。
堅く閉まっているドアの上部には、小さな小窓がある。その小窓もカーテンで閉ざされている。どうも営業している雰囲気ではない・・・。というより、中に人の気配が感じられない。
一応、確認のためにノックしてみるか・・・。そう思ったものの、ここはロシア。脳裏に政治書で読んだ恐怖の赤い帝国の影がちらついてくる。
役人のさじ加減で何とでもなってしまう社会主義の国。一介の旅行者が出しゃばった真似をすると消されてしまうかも・・・。ってことはないけど、単なる学生の旅行者がどうあがいたところで、どうにもできないほど強大な力がある国だ。そういった強力なプレッシャーを扉から勝手に感じてしまい、尻込みしてしまった。
こんな重くて大きな扉は一人では開けられない・・・。きっと誰もいないだろうし、こんなに朝早くだと迷惑に違いない・・・。だいたいここは社会主義だぞ。日本のコンビニのように24時間営業で業務を行っているわけがない・・・。と、自分に言い訳して、再びベンチに戻った。
再びベンチでうとうとしていると、今度は騒がしくて目が覚めた。目を開けると、ちょうど目の前を、年配のヨーロッパ系の団体客がにぎやかに通り過ぎていくところだった。まさに期待に胸を膨らませといった感じで、とても楽しそうな表情をしている。きっとこれから旅が始まるのだろう。
私も旅を始めないとな・・・。時計を見るとちょうど8時。さすがにもう開いているだろう。今度こそは・・・と、再度イミグレーションオフィスに足を運んでみると、今回は扉が少しだけ開いていた。
さっきまで開いていなかったので、中に誰かいるのは確かだ。しかし・・・、なんでこんな中途半端な状態でドアが開いているんだ。入りにくいではないか。
もしかしてこれはトラップか。隙間から中を覗こうものならドアに吸い込まれてしまったりして・・・。これぞ旅行者ホイホイの罠。甘いビザという誘惑で誘い、優秀な旅行者を捕獲するって算段か。優秀な私は特に気を付けなければ・・・。ってまあ、ここはロシア。何が起きてもおかしくはない。
不安からあらぬことまで想像してしまうが、このまま言い訳しながらグダグダと時間を過ごしていてもしょうがない。前に進もう。意を決し、軽くノックをして中途半端に開いている扉を開けた。
5、イミグレーションオフィスで
中に入ると、背広姿のいかついおじさんが椅子に座っていた。私の頭の中では、いかついロシア人は、映画に出てくるマフィアと印象が被る。だからもの凄く怖く感じる。
少し顔をひきつらせながら「グッドモーニング」と挨拶をしたものの、こんな朝早くからなんだよ。いきなり仕事かよ。といった感じで、こっちをジロッと見ただけだった。
予想通りの反応だな・・・。きっとこれはロシア式の挨拶なのだろう。でも、ここでたじろいでは駄目だ。今までの経験からすると、こういった場合はオドオドするよりも毅然と行動した方がいい。
いかつい係官に勧められるまま椅子に座ると、「トランジットのビザを発行して欲しい。」と用件を伝えるのだが、間髪いれずに「パスポートと航空券を出しなさい」と、ぶっきらぼうに言ってきた。
形式的というか、愛想の欠片もないな。でも、愛想よく誰にでもポンポンとビザを発給する係官が日本の空港にいたなら、それはそれで嫌だな・・・。そう思うと、これはこれでいいのかもしれない。
それよりもビザが手に入らなければ、この後、12時間も空港内に缶詰になってしまう。堂々とした態度で、尚かつ、なるべく印象がいいように、そう、就活用の笑顔でパスポートや航空券を渡した。
係官は提出されたパスポートと航空券をまじまじと眺め、「職業は?」「どうして入りたいんだ?」とか、「入国したら何をするつもりだ?」などを聞いてきた。存在に迫力があるので、尋問されているような気分になる。
でも、ここでたじろいてはダメだ。「私は日本の大学生です。乗り継ぎ時間が長いのでモスクワを観光をしたい。ぜひクレムリンに行きたいのです。お願いします。」と頼んだ。
その返答に納得したのか、「ちょっと待ってろ。確認する。」と、係官はパスポートを持って奥の部屋に入っていった。後はおとなしく結果を待つしかない。
5分が経った。大丈夫だろうか・・・。テストの結果発表みたいな感じで、ちょっと緊張する。何より狭い部屋に一人ぼっちで待たされているので、落ち着かない。
やっぱりあのおじさんは偉い人なんだろうか。一人で任されているからにはそれなりの立場の人に違いない。見た感じからして貫録があるからな。何等書記官とか、審議官とか、そういった肩書があるのかな。暇なので色々と想像してみる。
しかし、そのおじさんはなかなか戻ってこない・・・。ブラックリストなどで、念入りに私の名を照会しているのだろうか。そうであってもそのようなものに載るような事はしていないので、大丈夫だろう。
ただ、一つだけ懸念があった。それは、今私の着ている服がモロッコの民族衣装だということ。明らかに日本人らしくない格好をしている。
モロッコを旅している最中に、モロッコの人が来ている服と同じ服で旅してみようと思い立ち、モロッコの民族衣装を買って、それを着て旅をしてみた。
これはモロッコ人にも好評で、色々な場面で地元の人にも馴染め、楽しく旅ができた。ここまではよかった。
せっかくなので、モロッコを出るまではモロッコの民族衣装を着ていよう。それが今回の旅の締めくくりとしてふさわしい。と、変にこだわってしまったことが失敗だった。
アエロフロートで乗り継ぎのある場合、荷物を航空会社に預けると、かなりの確率でモスクワ空港で鞄を盗まれたり、中身を抜かれたりする。その話は、旅行に詳しい人の間ではよく知られている。
そうならないよう、往路同様にバックパックを機内に持ち込むつもりだったのが、最初の搭乗手続きの時はよかったものの、飛行機に乗る寸前の搭乗チェックで、「この鞄は大きすぎるから駄目だ。預けてください。」と言われ、どう粘っても持ち込めなかった。
仕方なく預けることにし、バタバタと書類に記入し、飛行機に搭乗したのだが、離陸した後に「しまった・・・。着替える服が預けた鞄の中だ・・・。」と気が付いた。
今更気が付いても、もう後の祭り。鞄は成田まで受け取ることができないので、この格好のままで過ごすしかない。
そういったしょうもない事情で、日本人でありながらモスクワでモロッコの民族衣装を着ている、という意味不明な状態になってしまっている。
さっきから空港を歩いていると、視線をバシバシ感じるし、自分でも場違いに感じるから、普通に考えれば怪しく見えるに違いない。
6、入国審査
モニターなどで監視されている可能性もあるので、挙動不審な動きをしないように、行儀よく椅子に座って待った。そして、不安になりながら10分ぐらい待っただろうか、係官が奥の部屋から戻ってきた。
その表情は先ほどまでの仏頂面のまま。大抵こういうシチュエーションでは、「おめでとう」といった感じで、少し口元などが緩むものなのだが、そういった気配が微塵もない。
もしかして駄目だったのか・・・。悪いケースが頭をよぎったが、すぐ「ビザの許可は下りた。」と言ってきたので、ホッと胸をなでおろした。
なんとも紛らわしい。というか、もっと顔の筋肉を動かそうよ。ポーカーをやっているわけではないのだから・・・。
そういった皮肉の一つでも言いたくなる場面だが、そんな余裕を彼は与えてくれなかった。私のパスポートを手にしたまま、すぐに「君はムスリム(イスラム教徒)か?」と聞いてきた。
やはりこの服が怪しく見えるようだ。でも怯んではいけない。私は「いいえ。仏教徒です。この服は前の訪問地のモロッコを旅している際に購入したものです。イスラムの服ではなく、普通のモロッコの民族衣装です。」と、なるべく当たり障りなく答えた。
しかし、「その格好では入国できない。他の服に着替えなさい。クレムリンは神聖な場所になる。宗教的な問題が起きると大変だ。」と言ってきた。
「嫌です」なんて言ったら入国できないのだろうな・・・。ここは話を合わせるのが得策。「わかりました。そうします。」と答えると、それならばいいといった感じで頷き、パスポートを手渡してきた。
ちょっと雲行きが怪しい展開となってしまったが、何はともあれこれでようやくビザがもらえる・・・。
ビザ代40ドルを払い、ビザを受け取った。渡されたのは3日間有効のトランジットビザだった。12時間の為に40ドルか。3日もいないから半額にしてくれればいいのに・・・と、貧乏旅行者らしく思ってしまうが、これはどうにもならない事。きっとモスクワ市内には40ドル以上の価値が待っているに違いない。
ちょっと面白く感じたのが、ビザというと、パスポートにスタンプとか、シールを貼り付けて、必要事項を記載する場合が多いが、ロシアのビザはパスポートに記載するのではなく、三枚綴りの書類になっていた。
係官が言うには、入国の時に一枚切り離して、出国の時に残りを回収するシステムをとっているとの事。だから絶対になくすなとの事だった。
なくしたらどうなるんだろうと、疑問がもたげてきたが、この無愛想な係官にそんな冗談交じりの質問をする勇気はなく、ビザを受け取った後は「ありがとう」と言って、速やかに部屋から退出した。
やれ、緊張したな・・・。でもよかった。ビザを手に入れることができた。これで空港内で缶詰め状態にならないで済む。ようやく肩の荷が下りた気分だ。
後は入国し、市内へ繰り出し、気ままにモスクワ散策をするだけ。とまあ、普通ならそうなるのだが、社会主義のロシアだと何が起こるかわからない。
ビザを持っていても、入国審査官に「お前はいかにも怪しいぞ。日本のパスポートを持ちながら日本人ではないな。」などと拒否されるかもしれない。
服を着替えろって言われたけど、今はこの服しかないからどうすることもできない。何か言われたら「入国してすぐ買います。どうしても観光がしたいです。」って言おう。観光目的の大学生だから、お願いすれば何とかなるはず。
不安になりながら入国審査へ向い、恐る恐る入国審査台に行くと、審査官は女の人だった。パスポートとビザの書類を提出すると、私の顔を一瞥しただけで、パスポートにスタンプをポンと押し、すぐに返してきた。
あれっ・・・、力の入っていた体から一気に力が抜けていった。書類さえそろっていれば問題ないといった感じで、あっけないほど簡単に終ってしまった。
これが社会主義の象徴であるロシアの入国審査なのか。イギリスやアメリカ並みの質問攻めにあうと思ったのに・・・。ちょっとあっけなさすぎるぞ。
次は税関だったが、小さなリュック一つの私は調べようともしなく、あっという間に通過してしまった。なにより係りの人はおしゃべりに夢中だった。
こんなにあっさりとロシアに入国できるとは・・・。就活の面接のように、あ~言われたら、こう答えよう。と、色々と最悪なパターンを考え過ぎてしまったせいか、強烈な脱力感を感じてしまった。
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