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旅人の歯医者日記

第3章 ユーラシア大陸横断
#3-1 夢は世界一周

1999年12月

念願だったユーラシア大陸の横断。やるべきか、やらざるべきか。迷いに迷って決断しました。

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1、あれから2カ月

12月のイメージ(*イラスト:海辺のあひるさん)

(*イラスト:海辺のあひるさん 【イラストAC】

最後の診察を終えてから2ヵ月が経ち、季節は12月になった。前回の治療では、前歯が2本途中から折れてしまったので、それを差し歯にしてもらった。

前歯が折れた時は、折れた歯は元通りにはならないし、一体どうすれば・・・と、絶望感で一杯だったが、差し歯を入れてもらったことで、見た目にも、機能的にも元に近い状態に戻り、安堵した。

不運な事故だったが、起こってしまったことはしょうがない。生きていれば色んなことがあるというものだ。もう気にしないようにしよう。差し歯の治療が一段落すると、そう気持ちの整理が付いたのだが、トラブル大好きな神に愛されているようで、運命の歯車はまだ回り続けた。

運命の歯車のイメージ(*イラスト:もち。さん)

(*イラスト:もち。さん 【イラストAC】

その時の事故では、顎にも打撲を受けた。どうやらそれがスイッチとなってしまったようで、事故後、右上の親知らずが急激に生えてきた。

親知らずが生えてくること自体は、正常なこと。普通なら何も問題が起きないのだが、歯並びが悪い場合はその限りではない。隣の歯や歯並びに干渉し、問題が生じる場合がある。

残念ながら私の歯並びは悪い。それも「非常に」と付け加えたほうがいいぐらいにだ。親知らずは顔を出したものの、きちんと生えてくる場所がないので、最初のうちは遠慮がちに斜めに生えていた。

しかし、歯が伸びてくると、徐々に他の歯を押すようになっていき、差し歯の治療が終わるころには、歯並びに干渉するようになっていた。

斜めに生えてくる親知らずのイメージ(*イラスト:ユキさん)

(*イラスト:ユキさん 【イラストAC】

この窮屈に生えてきた親知らずが悪さをしてしまったようで、差し歯の治療が終わって間もなく、治療した前歯の差し歯部分の神経の炎症が起き、再び治療が始まってしまった。

これは原因となっている親知らずを抜いてもらったことで、とりあえず神経の症状は落ち着いた。しかし、根本的な完治ということにはならなく、「多分大丈夫でしょう。でも、再発したらすぐ来てください。」といった中途半端な状態で、前回の治療が終わった。

前歯は折れるし、治療期間は長いし、強烈に痛い治療の連続だったし、さんざん治療を受けたのに完治せず、再び神経が炎症するかもしれないし・・・と、今振り返っても、いや、思い出したくもないほど辛い治療体験になる。

苦しい思い出のイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

その後、月日の経過と共に前歯付近にあった痛みや、ひきつった症状は和らいでいき、今ではそういった違和感は、ほぼ感じなくなった。

とはいえ、一時的によくなっただけで、後々再発する可能性も無きにしも非ず。いや、可能性として高いのかもしれない。

親知らずを抜いてもらった後の経過観察中に、先生が「できる限り歯の神経を残すのが当院の方針です。なので、神経を殺さずに治療を進めました。ただ、今回の場合は裏目に出てしまったのかもしれません。神経の具合があまりよくありません。我々の判断ミスとも言えます。神経の処置をするのには、差し歯を壊して外さなければなりません。その際の新しい差し歯はこちらで用意させてもらいます。」と言い、この機会に神経を取り除く治療をすることを勧めてくれた。

リスクの天秤のイメージ(*イラスト:erimaruさん)

(*イラスト:erimaruさん 【イラストAC】

今のうちに神経の処置をしておけば、また悪くなるかもしれないといった心配はなくなるし、何より今なら費用がかからない。やるなら今でしょ。といった考え方もできるのだが、長々と歯医者に通った後で、再び長々と通うのは嫌だし、そもそも神経の処置は痛かったり、しんどかったり、退屈だったりと、積極的に受けたい治療ではない。

神経は安定したみたいだし、痛みもないし、わざわざ処置をしてもらわなくてもよさそうだ。もし悪くなってしまったら、その時は運が悪かったと観念することにしよう。なすがままに、Let it be.というやつだ。ということで、前歯に関しては、もう「治療は終了!」と、私の中で結論が出た。

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口の中のもう一つの懸念材料となっているのが、親知らず。前回抜いた右上の親知らずの反対側、左上奥歯の親知らずが、今度は自分の番だと認識したのか、歯の並びにゆとりができたのか、少しずつ成長してきている。

親知らずが生えるイメージ(*イラスト:mu-muuさん)

(*イラスト:mu-muuさん 【イラストAC】

今のところ右上の時ほど斜めに生えていなく、他の歯並びにも干渉をしていないので、特に問題は生じていない。ただ、前回のように突然前歯に問題が飛び火する可能性があるので、何か予兆が現れたら、即抜いてもらうことにしよう。

下の親知らずは、歯茎の中に完全に埋まった状態で、真横を向いている。レントゲン写真を見ると、いつ破裂するかわからない爆弾のような存在に思えるのだが、先生が言うには、こういう親知らずをしている人は多いものの、実際に生えてくる人は、ほぼいないとのこと。

横向きに生える親知らずのイメージ(*イラスト:瑠香さん)

(*イラスト:瑠香さん 【イラストAC】

とはいえ、存在している以上、生えてくる確率はゼロではないし、神経が炎症するようなトラブルを起こす可能性だってある。そういった時には、切開手術を行い、取り出すなりの処置をしなければならないとのことなので、私の生存中は大人しくしていてくれることを願うしかない。

気にしてもどうにもならないので、気にしないようにしよう。なるようにしかならないけど、ならないのが一番。気にしてばかりいると、愛情を受けていると勘違いして、すくすくと生えてきてしまうかもしれない。極力歯に関しては気にしないように過ごすことにしていた。

2、ユーラシア大陸横断への決意

旅に憧れる子供のイメージ(*イラスト:Nakasaさん)

(*イラスト:Nakasaさん 【イラストAC】

私は小学生の頃から旅が好きだった。旅番組をよく見ていたし、遠くへ移動できる鉄道も好きだった。将来の夢は、「世界一周をすること」と、よく人に言っていたものだ。

そんな旅好きな子供は、中学生になると一人で日帰りの旅をするようになり、高校に入ると青春18きっぷで日本を旅をするようになった。そして時間とお金を比較的自由に使える大学生になると、海外を一人で旅して・・・と、徐々に旅のスケールをステップアップさせていった。

大学時代には、3度、海外一人旅行を行った。そのうちの一回は、航空会社のキャンペーンチケットを利用した世界一周旅行だった。日本から飛行機で西回りに地球を回っていき、途中、香港、インド、ロンドン、アメリカに立ち寄って、40日後に日本に戻ってきた。

世界一周のイメージ(*イラスト:れんげさん)

(*イラスト:れんげさん 【イラストAC】

40日間世界一周ってやつで、ジュール・ベルヌの「80日間世界一周」の半分で成し遂げたぞ。小学生の頃からの憧れだった世界一周旅行を成し遂げたぞ。と、帰国直後は満足感いっぱいで、みんなにも自慢して回っていたが、感動が覚めるのは早かった。

地球を一周するといった壮大な旅であったことには間違いないが、あくまでも便利な飛行機で地球を一周回っただけのこと。やろうと思えば誰でもできてしまう。実際、達成感もそんなに大きいものではなく、途中で訪問したインドでのカルチャーショックや、その隣国のネパールで行ったバイクツーリングの方が印象深かった。

この飛行機での世界一周を終えてからは、ぶつ切りのような旅ではなく、地に足を付けた旅、例えばシルクロード横断というような陸続きの旅をしたい・・・と強く思い始めた。「旅の終わりは新たな旅の始まり」とは、よく言ったものだ。

国土地理院地図 世界地図

国土地理院地図を書き込んで使用

陸続きの旅の象徴は、大陸横断とか、縦断になる。日本は世界一大きなユーラシア大陸の東端に位置している。ユーラシア大陸の西端であるロカ岬へ向かって、大陸を横断する旅をできたなら、どんなに素晴らしいことだろう。文化の変化や、気候の変化を楽しみながら旅をすることができ、得るものや感じるものが多いはずだ。

とはいえ、それはとてつもなく壮大な旅。それなりの時間とそれなりのお金が必要になり、そう簡単に実現できるものではない。

でも、いつか挑戦してみたい。実際に実現できるかは分からないけど、なにはともあれ先立つものがなければ話にならない。大学卒業後は、働きながらユーラシア大陸横断旅の実現に向けて色々と考えていくことにした。

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実家暮らしなので、お金が貯まるのは比較的早かった。って書くと、どれだけ高給取りなんだということになるのだが、そんなことはない。今の人には信じられないかもしれないが、この時代の日本円の力はべらぼうに強く、アジア地域の国々の物価はビックリするほど安かったので、100万円も用意すれば、半年から1年程度のユーラシア大陸横断を行うことが可能だった。

石の上にも三年のイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

でも、あまりに早く会社を辞めるのも、経験や人脈の面でもったいない。石の上にも三年という諺がある。どうせならある程度のスキルを得てから旅に出たほうがいい。きっと帰国した後の就職でも有利だ。

いやいや。鉄は熱いうちに叩けとか、思い立ったが吉日ともいう。年をとればとるほど日本に戻ってから社会復帰しにくくなるものだ。やるなら早い方がいいに決まってる。って、どのタイミングで旅立つのが、自分にとって一番ベストな選択肢なんだろう・・・。非常に悩ましい。

人生の岐路のイメージ(*イラスト:K-factoryさん)

(*イラスト:K-factoryさん 【イラストAC】

そもそもとして、こんな旅に出ない方がいいのではないか。真面目に働いているほうが、無難な人生を送れたり、成功者になる確率も高いような・・・。とまあ、重要な人生の岐路といった場面なので、行く、行かない。さっさと旅立つ。何か日本で実績を残してから旅立つ。期間も半年、一年、それ以上。と、様々な選択肢を挙げながら迷いに迷った。

人生は一度きりのドラマ。せっかくなのであれもこれもやってみたい。後悔のないように生きたい。と、誰しもが思い、重要な人生の岐路では悩みに悩むことだろう。でも、悩んだ先に行きつくのは、やってみなければわからない。そして、先のことなど誰にもわからない。ということ。

なので、最終的には行って後悔するのと、行かないで後悔するのとでは、どっちが後悔が少ないだろうと考え、行って後悔するほうがいいに違いない・・・といった少々屁理屈が混じった決意の元、旅立ちを決意した。

期間は、どうせ仕事をやめるなら、それなりに長く旅に身を置いた方がいいだろう。二度とできることでもないし。ということで、1年を目途に、体力や精神力、資金の100万円の余力があればそれ以上といった感じにした。

決意のイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

旅立ちを決意するものの、現実問題として、2つの懸念があった。一つは前歯の差し歯。せっかく意を決し、仕事を辞めて旅に出ても、旅の途中で歯が痛くなり、止むなく帰国・・・なんてことになっては最悪だ。旅と関係ない理由で旅が終わっては、後悔してもしきれないことになる。

この時代の世界の最先端技術は日本とか、アメリカだった。歯の治療に関しても、海外で歯の治療なんて・・・。ましてアジア地域ではどんな粗末な治療をされるかわかったもんではない・・・。衛生環境を含め、そう考えるのが普通だった。

なので、少なくとも前歯が完治し、少々過酷な状況にも耐えられる状況だと確信が得られるまでは、旅に出ないことにした。

パソコンのネットワークのイメージ(*イラスト:acworksさん)

(*イラスト:acworksさん 【イラストAC】

もう一つは、2000年問題。インターネットの普及とともに、最近では何でもかんでもコンピューター管理が進んでいる。コンピューターにデーター入力してしまえば、管理が楽だし、一度に多くの処理もできる。コンピューター様様といった感じだ。

とはいえ、その分、人間が機械やコンピューターの理屈に振り回されている感じがする。その最たるが、2000年問題。

西暦1999年から2000年に変わるとき、千の単位が変わる。この時にコンピューターシステムの計算がうまくいかなく、日付がリセットされ、システムがバグを起こす可能性がある。というのが、2000年問題になる。

コンピュータートラブルのイメージ(*イラスト:海辺のあひるさん)

(*イラスト:海辺のあひるさん 【イラストAC】

最悪の場合、オンラインで結ばれている各種サービスが止まったり、コンピューターが管理しているデータが初期化され、会員登録とかが無効になってしまうおそれがある。しかも起きてしまうと、復旧にはかなりの時間がかかると言われている。

連日、2000年問題がテレビで大きく報道されていると、この問題が大きな社会問題を引き起こすのではないか・・・。災害級の混乱が起きるのではないだろうか・・・と、凄く不安になってくる。

この時代、日本はコンピューター関係では世界のトップ・・・、控えめに言ってもトップ集団にいた。日本で起こる可能性があるなら、海外、特にまだ発展途中のアジア地域では、ほぼ確実に起き、大きなトラブルになるのではないだろうか。そう考えるのが、自然な流れだった。

通帳を見て驚くイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

旅をしている最中に、預金が倍に増えていたらうれしいのだが、0になってしまったり、カードや旅行小切手が使えなくなったら、路頭に迷うことになる。飛行機などが止まり、世界中の交通網が大混乱に陥ったら、身動きが取れなくなってしまう。

こういった問題は、日本にいれば対処もたやすいが、言葉の通じにくい海外だと、頭を抱えるような事態になり、最悪、帰国を余儀なくされることになるかもしれない。夏に旅立つならまだしも、11月、12月に旅立つなら、2000年になってからの方が安心というものだ。

で、春先に折れてしまった前歯は、夏に完治した。その後、行くべきか、行かない方がいいのかを真剣に悩んだ。

行くにしても2000年問題があるので、年明けにした方がいいかな・・・。それとも善は急げってなもので、10月の頭ぐらいに旅立った方がいいかな・・・。

頭を抱えるイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

そんな感じで悩んでいる最中に前歯の神経が痛み、再び歯医者生活に逆戻りとなってしまった。また出発は先延ばしだ・・・。というか、このままずっと旅に出られなかったりして・・・。もしかしたら、前歯が折れたことを含め、旅に出ずに真面目に働けという神様からのお告げというやつだったりして・・・。人間がどう頑張ってもあらがえない存在をも勘ぐってしまう。

ただ、今回の症状は親知らずを抜いてみたら、症状は思ったよりも早く収まった。先生は、再発する恐れがあるので、この機会に神経の処置をしておくことを強く勧めてきたが、神経の治療は治療期間が長いし、辛く退屈な治療が多い。旅に出るのも、確実に半年は先に延びてしまう。そういった事情を考え、断ることにした。

メビウスの輪のイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

きっと前歯の神経を治したとしても、また別の問題が起こってしまうのでは・・・。なんかそんな巡り合わせの元に生まれてきているような気がする。この歯医者通いの堂々巡りにはまっていては、いつまでたっても旅に出ることができない。ここは思い切って悪い流れを断ち切った方がよさそうだ。

まあ色々な治療や痛さを経験したので、多少歯についての知識も身に付いた。少々のことなら自分で対処できるし、場合によっては現地の歯医者に行って、一生懸命に説明して治療してもらえばいい。ということで、秋に治療が終わった後、旅に出る決意を固めた。

正式に出発を決めたのは11月。間もなく年末となり、2000年を迎える。今すぐ出発するには、2000年問題もあって、微妙。旅を始めてすぐトラブルに巻き込まれては堪らない。年が明け、少し経ったぐらいにした方が安心だ。

辞表を出すイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

カレンダーを見ると、中国の旧正月が2月上旬なので、その少し前の1月20日ぐらいの出発がちょうどよさそうだ。ということで、会社には辞表を出し、1年にも渡るユーラシア大陸横断への準備をしていくことにした。

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第3章 ユーラシア大陸横断
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