旅人の歯医者日記タイトル
旅人の歯医者日記

第3章 ユーラシア大陸横断
#3-3 出発前日の歯医者

2000年1月

間もなく1年かけてのユーラシア大陸横断の旅が始まる。その前日に歯医者に向かいました。

広告

6、出発前日の歯医者

旅をするイメージ(*イラスト:ユキウサタさん)

(*イラスト:ユキウサタさん 【イラストAC】

長いこと憧れ、夢みてきたユーラシア大陸を西に向かって横断していく旅。いよいよ明日が旅立ちの日だ。

最初は漠然と、そして徐々に行くことを真剣に考え、「ここは絶対訪れたい」「ここは状況に応じて決めよう」「この国ではあれを食べてみたい」などと、計画を立てていった。

この漠然とした感じで旅のことを考えたり、計画を立てているときは、これから体験できるかもしれない未知なる出来事にワクワクしっぱなしだった。

ワクワクするイメージ(*イラスト:bonbonさん)

(*イラスト:bonbonさん 【イラストAC】

旅の資金が溜まると、その計画が具体的になり、夢をかなえるために仕事を辞めるべきか。そんな非現実なことはやめて、堅実に生きるべきか。どっちが正解なのだろう。どっちが後悔が少ないだろう。と、さんざん悩んだ。

常識的に考えれば、日本でまじめに仕事を続けていたほうが、正解となるのだろう。放浪のような旅に出れば、旅行中に命にかかわるようなトラブルに遭うこともあるだろうし、何より帰国後は無職状態。いい仕事が見つかるとは限らない。いや、1年以上、日本の一般社会とのつながりが切れるので、現状よりも悪くなる可能性の方が高い。

でも、後で行けばよかった・・・と、グダグダと後悔するより、行って後悔したほうがすっきりしていいのでは。せっかくの一度きりの人生なんだ。何もなさずに終えるよりは、何かを成したほうがいいに決まっている。

それに全力で実行すれば、他人とは違った貴重な経験値が得られる。それをうまく役立てれば、きっと後で挽回することもできるだろう・・・。と、行きたい気持ちの方が勝った。

退職届を出すイメージ(*イラスト:K-factoryさん)

(*イラスト:K-factoryさん 【イラストAC】

旅立ちを決意し、仕事を辞めたときも、これで旅が始められる。と、決心が固まってすっきりとした気分だった。退職の気まずい告白でありながら、私の目は輝いていたはずだ。

そこから更に計画を詰めていき、日本を出発する日を決め、飛行機のチケットを取得すると、旅へのカウントダウンが始まった。

夢だった大陸横断の旅がいよいよ始まる。ワクワク感が更に増し、心が破裂しそう・・・とはならず、逆に今まで心の中に満ち溢れていた高揚感が、穴の開いた気球のようにどんどんとしぼんでいった。

これから始まる壮大な旅を目前にして、なんて言うか・・・、後戻りのできない気分というか、大きな壁の前に立ってしまった気分というか、まあ色々な面で気持ちのゆとりがなくなり、怖気づいてしまったのだ。

困難に立ち向かうイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

そう、放浪のような長旅は、アニメや冒険小説のように漠然と考える分には、楽しそうとか、面白そうとか、非現実的な事柄にワクワクした気持ちで心が一杯になる。

しかし、その話が具体的になっていくと、非現実が現実に変わり、今までの空想物語は他人事ではなく、自分自身のフィクションに変わる。そうなると、とたんに考え方が現実的になり、長い旅に対する恐怖心が芽生え、帰国後の心配も頭をよぎってくる。

更には、仕事をやめ、家族に迷惑をかけるからには、絶対に旅を成功させなければ・・・といった部分が、とてつもなく大きなプレッシャーになる。

不安にさいなまれるイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

頭に思い描いているような旅を成し遂げられるのか。旅でちゃんと何かをつかんで帰国できるのか。おれ。意気揚々と仕事を辞めて旅立っても、あっけなく帰国する事態になってしまったりはしないだろうな・・・。

考えれば考えるほど、やっぱり人生の選択を間違えてしまったのでは・・・。普通に日本で暮らし、上司や同僚に根回しを頑張り、数年に一回、10日程度の休みをもらって海外に出るほうがよかったのではないか・・・。そんな弱気な思考が頭の中で膨れ上がる。

不安にさいなまれるイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

もちろん、仕事を辞めるか、旅を諦めるかといった究極の選択については、さんざん悩んだ。そして、自分なりに後悔のない選択をしたつもりだ。

だが、その時は旅に出たいという気持ちが心の中に充満していたので、あまりデメリットの部分を深刻に感じていなかった。

しかし、決断した後に冷静になって考えてみると、また違った気が付きもあるというもの。とりわけ、仕事を辞めて無職の立場になってみると、気が付くことも多い。

辞めてすぐは、朝、仕事に行かなくていいという暮らしは幸せだとか、会社に縛られない生活ができていい・・・などといった開放感を満喫できたのだが、それは1週間だけ。

パスポートの申請に行くと、職業欄には無職と書かなければならないなど、今まであった社会的立場はなくなり、毎月振り込まれていた給料も入ってこなくなった。

不安定な状況のイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

立場も収入もない無職という存在は、こんなにも心細いものなんだな・・・。ちょっと強い風が吹いたら飛ばされてしまいそうだ。虚勢を張ったり、立場を取り繕ったとしても、足場がもろいのでちょっとした衝撃でガラガラと崩れてしまうだろう。

この頼りない状態を背水の陣と感じるか、宙ぶらりんと感じるかは気持ち次第だが、実際にこの状況に身を置いてみると、今までとは違った視点での考え方が現れてくる。

とりわけプレッシャーに感じるのが、仕事を辞めていく以上、真剣に旅に向き合わなければ、単なる長い観光旅行にしかならないこと。

悩むのイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

今までの旅行は学生の立場だったので、人生に必要なものを見つけなければ・・・などといった気負いはなく、自分らしく、気楽に旅をすることができた。

でも、今回はそうはいかない。一応、ユーラシア大陸を横断するということを今回の旅の第一目標にしているが、真なる目的は、この旅で人生に必要なものを見つけて帰って来ること。

仕事をやめ、一年間も旅行をして、楽しい旅ができましただけでは、その後の人生に続いていかない。それにトラブルに巻き込まれ、あっけなく帰国したでは話にならない。

この「旅でこれからの人生に役立つことを見つけるぞ」といった部分が、実際に仕事を辞めて「無職」という肩書になってみると、ずっしりと肩にのしかかってきて、ワクワクする気持を奪っているのだ。

プレッシャーがのしかかるイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

この問題の厄介なところは、そういったものは一年かけて旅をしたところで、見つかるとは限らないということ。というより、人生において何がプラスになるかなんて、後になってみないとわからないものだ。

テレビ番組のように、予めシナリオが決まっていて、結末もちゃんと用意されていれば何も悩む必要がない。でも、それは真の意味での旅ではないし、そんな旅ごっこをしたところで自分のためになるとも思えない。状況に応じながら今自分が何をすべきかを考え、行動していくことにこそ、旅の意義とか、挑戦する意義というものがあるのだ。

かといって、そういった旅をしたところで、旅の最中に自分の人生に役立つものが見つかる可能性は限りなく低くそうだ。きっと真っ暗な洞窟の中で、手さぐりで物を探すようなものだろう。というより、ゲームのように都合よく宝箱の中に入って落ちているわけがない。そう考えると、絶望的な航海に出航するかのような気分にもなってくる。

そういった不安な心境の中、出発日へのカウントダウンが淡々と進んでいき、あっという間に出発前日となってしまった。明日はいよいよ出発。出発への高揚感とか、旅へのワクワク感よりも、不安で気を失いそうな心境。精神的な余裕はなく、ただただ余裕がなく、慌ただしかった。

歯医者に向かうイメージ(*イラスト:bonbonさん)

(*イラスト:bonbonさん 【イラストAC】

そんな出発前日のバタバタとした状況の中、歯医者へ向かった。こんな時に歯医者・・・といった心境であるが、家であたふたとしているよりも、外に出ていたほうが落ち着くともいえる。

今日の治療は、前回治療してもらった奥歯のサシ歯の確認と、歯のクリーニング。先日入れてもらった差し歯は問題なく使えていたので、先生が口の中を確認すると、すぐ「問題ないですね。大丈夫です」と言い、治療はあっけなく終わった。

その後は、歯科衛生士に歯全体のクリーニングをしてもらった。クリーニングが終わると、なにやら今日はいつも以上にすっきりとした気分になった。出発前に散髪に行って、身支度を整えるような心境になるだろうか。

これで口の中の準備は万端。後は、旅の最中にちゃんと歯磨きをしさえすれば、1年程度の旅なので深刻な虫歯ができることはないだろう。

先生との会話のイメージ(*イラスト:kotoneさん)

(*イラスト:kotoneさん 【イラストAC】

クリーニングの後に先生が最終確認に来たので、出発に間に合ったことのお礼を言った。そして、「1年ほどの旅に出ても大丈夫ですよね?」と、もう一度聞いてみると、「毎日歯を磨いて口の環境をよくしておけば問題ないでしょう。」と、少々頼りないけど太鼓判を押してくれた。

これは心強い!と、笑顔を作るものの、全てを信用していなかった。トラブルは私の専売特許。まして歯に関しては、今までの経緯を考えると絶対に何か起こるに違いない。

歯の痛みは我慢して治るものではない。それはここ数年の歯医者生活から得た教訓。最後に、「長いことお世話になりました。海外で神経が痛み出したら早急に対処するのが大変なので、できれば鎮痛剤を多めに処方してもらえませんか。」と、先生にお願いした。

思いもしていなかった患者からの申し出だったようで、先生は一瞬返答に困った顔をしていたが、すぐに意図したことを理解してくれ、「わかりました。用意させます。気を付けて旅をしてくてください。」と、旅の後押しをしてくれた。

痛み止めのイメージ(*イラスト:改築工房さん)

(*イラスト:改築工房さん)

受付の女性に診察代と薬代を払うと、大量の鎮痛剤を渡してくれた。「多めに」とは言ったが、想像していた2倍以上の数だったので、びっくりした。

さすがに多過ぎるような・・・。これは先生の愛情とか、餞別と解釈すればいいのかな・・・。うれしいけど、これだけの鎮痛剤を使うような状況にはならないような・・・。というより、そんな場面は想像したくない。きっとその時点で帰国していそうだ・・・。

でもまあ、少ないよりは多い方がいいか。鎮痛剤を受け取ると、何か気分的にすっきりとしてきた。これで歯に少々のことが起きても安心だ。旅もきっと成功するだろう。

どうやらこの薬は、鎮痛剤ながら精神安定剤のような役割もしてくれようだ。この鎮痛剤をお守り代わりに、ユーラシア大陸を横断を成功させるぞ。と、晴れ晴れとした気分で、自宅への道のりを歩いた。

旅人の歯医者日記
第3章 ユーラシア大陸横断
#3-3 出発前日の歯医者
#3-4 日本出国 につづく Next Page
広告
広告
広告