第3章 ユーラシア大陸横断
#3-4 日本出国
2000年1月
いよいよあこがれていたユーラシア大陸横断への出発。この当時のユーラシア大陸横断について少し書いてみました。
7、日本出国
長いこと憧れ、夢みてきたユーラシア大陸を西に向かって横断していく旅。いよいよ旅立ちの日となった。出発当日となってみると、これからの旅に体が身震いが止まらない。いや、正直に言うと、出発の3日前から頭の中が混乱し、少々パニックになっていた。
準備は万端なのか。やっておかなければならないことが、まだ残っているのでは・・・。頭の中を様々な不安が渦巻き、気持ちが全く落ち着かない。
今日も朝起きてからというもの、今のうちにあれをしなきゃ、これもしておかねければ、持ち物の再確認を・・・と、どうにも気持ちだけが焦って、行動が空回りしている。きっと血の気の引いた顔で、家の中を無駄にウロウロしていたに違いない。
そんなバタバタした私とは正反対に、時計は淡々と時を刻んでいく。まずは朝、出勤していく親父に別れを告げた。まあそんなに会話がある親子ではないのであっさりとした別れだった。
そして昼過ぎに母親と愛犬、そして我が家と自分の部屋に別れを告げた。しばらく留守にするよ・・・。逞しくなってちゃんと帰って来るからね・・・。
今回の旅は少なくとも1年は帰国しないつもりでいる。なので、家を出るのだけでも様々な思いが頭の中で渦巻き、感情が高ぶってしょうがない。
旅行中に大きなトラブルに巻き込まれ、もう生きてこの家には帰ってこれないかも・・・。自然とそういった恐ろしいことが頭をよぎるのだが、言葉が通じず、勝手の分からない海外なので、十分にあり得る話だ。
そもそも、そういったこと以前に私自身が孤独やストレスに負けたり、心が折れて、2、3か月で日本に帰りたいとなってしまうかもしれない。
いや、そんなことになるはずがない。仕事を辞めて旅立つ人間は旅に対する覚悟が違うんだ。と、心の中では自分なら大丈夫と思いつつも、実際に旅が進んでいくと、どういう心理状態になるのか分からない。
分からないことを一生懸命考えてもしょうがないけど、出発前の不安な心境で考え始めると、不安が不安を呼び、考えれば考えるほど不安の沼に深くはまっていく。
もし途中で旅がうまくいかなくなったらどうしよう・・・。仕事まで辞めたというのに・・・。
いや、帰れってくればいいだけのことではないか。そうだよ。とっとと帰ってくればいいんだ。そして人生をやり直せばいい。所詮は単なる旅なんだ。そう開き直ると、少し気が楽になってきた。
帰る場所や帰るのを待ってくれている人がいるというのは本当にありがたいものだ。そんな気持ちで家を出発していくのだが、玄関を出る時には目頭が熱くなっていた。
自宅から成田空港までは、わざわざこの日に合わせて休みを取ってくれた友人と後輩が、車で送ってくれた。
自分ができないことを友人や知り合いが挑戦していると、それをできる範囲で応援したくなるものだ。
例えば、友人や友人の知り合いでバイクのレースをしている人がいる。自分がレースに出たいとは思わないが、その手伝いをすることで、一緒にレースをしている気分になれる。
今回も、自分が旅をするわけではないのに、旅に出かけるようなちょっと興奮した表情をしている友人たちの顔つきを見ると、多分そんな心境だったと思う。
ユーラシア大陸横断だ。と言っても所詮は旅であり、娯楽。友人のためにとか、母校にとか、故郷に錦を飾るようなことではない。なので、スポーツ選手のように、誰かのためだとか、みんなの分まで旅を頑張ろうという崇高なセリフを吐くつもりはない。
でも空港まで見送ってくれ、少なからず旅の様子に期待してくれている友人たちにいい報告ができるよう、精一杯旅に向き合い、自分の旅をしっかりと遂行していこう。
レースでは、いい成績を残せばもちろん応援する方もうれしいが、無事に完走してくれるだけでも、「よく頑張った」と嬉しく感じるもの。
旅なのでどういう結果になるのか、どういうゴールを迎えるのか、今はさっぱり想像付かない。でも、日本に戻ってくるときには、送ってくれた友人たちに「後悔のない旅をしてきたよ」と胸を張れるようでありたい。
8、旅初めの地、香港
成田を飛び立った飛行機は、無事に香港に到着した。飛行機を降り、入国審査官に入国スタンプを押してもらうと、ほっと一安心。恐る恐る踏み出した旅の第一歩目を、無事に地面に接地させることができたような心境になるだろうか。
とうとうユーラシア大陸横断が始まってしまったな。もう簡単に後戻りはできない。もう悩んでいてもしょうがない。前だけを向いて、気合を入れて頑張ろう。時計の針を1時間戻し、香港時間に合わせた。そして、繁華街にある安宿が集う重慶マンションを目指した。
なぜ香港からユーラシア大陸横断の旅を始めたのか。どういったユーラシア大陸横断をしようとしているのか。ちょっと書いておこう。
私が旅を始めた2000年は、湾岸戦争が終わった後の比較的世界情勢が安定していた時期になる。内戦、小競り合いを行っている国はあったが、特に大きな戦争はなかった。
ユーラシア大陸でいうなら、戦争が終わって国内が混乱しているアフガニスタンとイラクは絶対に入ってはいけない国で、旧ユーゴスラビアから独立した国々、特にコソボやマケドニアも入国が難しかった。
また、入国は可能であったが、自爆テロが頻発していたイスラエル、内戦が終わったカンボジア、軍事政権のミャンマーやシリア、レバノンなども治安面で少し問題があったり、ビザの取得に苦労した。
ビザの関係で言うなら、この時代は中東のアラビア半島にあるイスラム諸国は観光客にオープンになっている国は少なく、ツアー客ならともかく、気ままに旅をするバックパッカーの入国は難しかった。
それ以外は、日本のパスポートだとビザ免除の国も多く、ビザが必要でも観光目的なら取りやすく、今と比べても旅のルート選択の自由度は高かった。
1990年代の後半から2000年代の中盤にかけては、日本の国力は欧米に引けを取らず、通貨の円も強く、何より日本のメーカーのブランド力や技術力は飛びぬけていたので、日本や日本人は一目置かれる存在であった。今振り返っても、この時期は日本人が一番旅をしやすかったように思う。
この時代、といっても、過去も今も大きく変わりがないと思うけど、日本からユーラシア大陸を西へ向かって横断する場合、おおまかに3つのルートに分かれていた。
一番人気があるのが東南アジア、インド、イランと海沿いを通って、トルコに入る南ルート。ビザの取得が比較的簡単だし、名が知れた国を多く訪れることができるので、ほとんどの人がこのルートを選択していた。
かつて猿岩石がヒッチハイクで進んでいったルートとか、沢木耕太郎さんの深夜特急のルートいえば解りやすいだろう。ユーラシア大陸横断の王道コースとも言われる。
ただ、ミャンマーは陸路で出入国するのが難しいので、この国の出入国には飛行機を使わなければならなく、全て陸路や海路だけでユーラシア大陸横断ということにはならない。
次は中国を西へ突っ切っていき、中央アジア諸国を通り、イランかトルコで南ルートに合流するルート。或いは中国からパキスタンへ抜け、南ルートに合流するルートもある。
かつてのシルクロードと重なるので、シルクロード横断ルートとか、真ん中ルートと呼ばれているが、シルクロードという響きの良い名とは裏腹に、結構過酷なルートになる。
まず広大な中国を横断するのが大変なのと、中央アジア諸国のビザの手続きが面倒で、治安的に微妙な国もある。
それにタジキスタンとか、ウズベキスタンとか、なんとかスタンと名が付くようなマイナーな国ばかりを進んでいくし、それらの国は乾燥した台地とか、砂漠ばかりで、風景もあまり代わり映えがしない。
そういったことから旅の初心者には人気がなく、旅の猛者とか、飛行機を使わないで陸路にこだわる人とか、旅にテーマを持った人などが選ぶルートになる。
ただ、日本である程度ビザをそろえると、短期間で一気に駆け抜けることができるので、あまり時間をかけずにユーラシア大陸横断をしたい人には最適なコースとなる。
最後は新潟から日本海を渡ってロシアのウラジオストクに入り、シベリア鉄道でロシアを横断してモスクワに行き、ここからヨーロッパへ入ったり、トルコに南下するシベリアルート。北ルートとも呼ばれる。
このルートだと、ヨーロッパの国だけでユーラシア大陸横断をできてしまったりする。ユーラシア大陸横断はほどほどにして、ヨーロッパ旅行を楽しみたい旅行者がこのルートを使っていたりするが、なかにはまずシベリア鉄道でヨーロッパへ向かい、日本へ戻るようにユーラシア大陸を横断している猛者もいた。
ただ、10日にも及ぶシベリア鉄道の旅は、想像以上にしんどいようだ。ひたすら車窓にツンドラの風景が続き、気分的に全く変わり映えがしなく、退屈の極みになるとか。
このルートで横断した旅人の口から出てくるのは「退屈」の言葉ばかりで、お勧めと言ってきた人は今まで会ったことがない・・・。
この3ルートの中でどれを選ぶか。シルクロード横断という言葉の響きに憧れはするが、やっぱり多くの国を訪れ、見聞を広げたい。ということで、南ルートを使って横断していくことにした。
旅初めの地はどうしよう。私の場合は、学生時代にユナイテッド航空の世界一周フライトを行い、その時にもらったアジアへの無料チケットが手元にあった。フライト先は、「ソウル」「上海」「香港」「バンコク」「シンガポール」と選べた。
この中からだと、香港が一番惹かれる。ユーラシア大陸横断といえば沢木耕太郎さんの深夜特急や猿岩石のヒッチハイクがよく知られている。そのどちらも香港からスタートしている。出発地点としては申し分ない。
それに香港は物価は高めだが、治安がいいので、いきなり修羅に突入となることはない。先に進むための中国やベトナムビザを取得するのも楽だし、何より香港の隣の深圳に高校時代の友人が留学している。何か困ってもその友人が何とかしてくれるだろう。と、迷いなく、香港を旅初めの地に選んだ。
ちなみに、この当時、ユーラシア大陸横断の最初の訪問地として人気となっていたのは、上海、香港、台湾、バンコクだった。
この時代ならではというなら、飛行機を使わないで行くぞ!と気合が入っている人は、台湾か、上海、或いはプサンに船で渡っていた。
今の時代だとLCC(格安航空会社)が多く運行され、簡単に片道単位で航空券を購入できるが、この当時にはそういったものはまだなく、航空券の片道切符というのがあまり一般的ではなかった。
もちろん片道の航空券自体は売っているには売っていた。でも、往復と料金がほとんど変わらなく、むしろ格安航空券の往復料金の方が安い場合もあった。
ユーラシア大陸横断をする旅人が往復を買っても片道分は無駄になるだけ。使わない往復料金を払うなら、飛行機を使わないで旅を進めていくといったこだわりを含め、片道料金で乗れる船便は魅力的な選択肢となる。
そういった交通事情に、シルクロードを横断していくルートも選べることから、この時代は船で上海に渡り、上海で旅の一歩目を踏み出す人が多かった。
また、船で沖縄に行き、石垣島、台湾、香港と進んで行く人もそれなりにいた。実際に会った旅人の中には、まず沖縄に行き、さとうきび畑で季節労働者として働き、沖縄を満喫しながら旅の資金を増やした後、台湾に渡って旅を始める逞しい人にもいた。今はどうか知らないが、この時代はそれなりに旅人の間で知られた方法だった。
バンコクは言わずと知れた旅人天国の町。特に外国人旅行者街となっているカオサン通りは、手ぶらでやってきてもユーラシア大陸横断の旅を始められるというぐらい、何でも揃えることができる。
物価もそこそこ安く、日本のデパートやレストランも多くあるし、周辺国のビザも取得しやすい。東南アジアの真ん中に立地しているので、ルートを自由に決められ、周辺国へのアクセスも容易と、本当に旅を始めるには最適な場所だ。
この時代は、バンコクから少し東に戻るようにインドシナ半島にあるカンボジアやベトナム、ラオスをぐるっと回り、一回バンコクに戻ってから、本格的にユーラシア大陸を西に進んで行く人も多かった。
難点もあり、ユーラシア大陸を横断するつもりでバンコクにやって来たものの、バンコクで悪い旅行者と知り合ってしまい、そのままバンコク滞在の沼にはまり、タイだけで旅行が終わってしまう人もいた。色々と誘惑の多い町でもあったりする・・・。
第3章 ユーラシア大陸横断
#3-4 日本出国 #3-5 中国の床屋 につづく(現在制作中)