旅人が歩けばわんにゃんに出会う
国内編 東北1
東北地方で出会った猫や犬の写真を紹介しています。
1、昆布とわんこ(青森県大間 2003年9月)
島国である日本。島の数は6,853個あり、島の数で言うなら世界で8番目の島国となる。その島国日本の中心部で、国土面積の大半を占めているのが、本州。本州の面積は約22万8千km²。地球で7番目に大きな島になる。
本州の最北部に位置しているのは、青森県。その北側には、左に津軽半島、右に下北半島が北海道の方へ突き出ていて、下北半島の先端、大間崎が本州の最北端になる。
最北端という言葉を聞いて、ワクワクした感情を抱いたり、どうにも行きたくなってウズウズしてくるのは、旅人の性。自転車やバイク乗りといった冒険者たちも同じ類になるだろう。
現在、事実上の日本の最北端は、北海道の稚内の宗谷岬。北に向かって旅をする場合、宗谷岬が行くことのできる限界地点になる。せっかくなら日本の最北端である宗谷岬を目指して旅をしたかったのだが、休める日数的に無理があったので、本州最北端の大間岬を目指してバイクで旅をすることにした。
東京を出発すると、北へ進路をとり、ひたすら東北を北上していった。そして、紆余曲折、波乱万丈の長い旅路を経て、大間崎の本州最北端の碑にたどり着いてみると、言葉に出来ないほどの感動が・・・というのは話を盛り過ぎだが、本州の最北端でも十分に達成感やら満足感を得ることができた。観光地を訪れる旅もいいが、こういった旅もいいものである。
私の本州最北端達成自慢はさておき、本州最北端の地、大間と聞くと、まず思い浮かべるのは大間マグロ。大間の目の前に広がる津軽海峡で、一本釣りと延縄によって水揚げされるクロマグロ(本マグロ)は、マグロの最高級品として全国に知れ渡っている。
なぜに大間でマグロ。なぜ大間のが高級品。と、疑問が湧いてくる。早速調べてみると、津軽海峡は日本海と太平洋を結ぶ海峡になるが、ここには北からの黒潮、南からの対馬海流、千島海流の3つの海流が流れ込み、魚の餌となるプランクトンが多く生息している。要は魚にとってとても豊かな海なのだ。
その為、大間で獲れる水産物は、マグロに限らずどれも身が大きく、旨みが濃厚なのだそうだ。実際に食べたことがないので、断言して書くことはできないが・・・。
マグロが有名な大間だが、実は昆布も隠れブランドとなっている。激しい津軽海峡の海流にもまれ、また親潮が運んでくるリン、窒素、ケイ素などの栄養塩によって、質のいい昆布が育つ。
訪れたときはちょうど旬のようで、海岸沿いには水揚げされた昆布が大量に干されていた。こうやって時間をかけて天日で干し上げることで、昆布の旨み成分が凝縮されていくのだ。
海沿いを散策していると、昆布の選別作業をするおばあちゃんの近くでワンコがお昼寝をしていた。このワンコは、鳥などから昆布を見守る役割を担っているのか、おばあちゃんを見守っているのか、単におばあちゃんが寂しくて連れてきたのかわからないが、昆布に囲まれて寝ている様子はほほえましい光景だった。
ワンコと昆布のコラボしている様子もいいが、このワンコの耳だけ色が違うことにも目を引かれた。しかも昆布色。耳だけ色が違う日本犬は、いそうでありながら、実際はあまり見かけない。
耳だけ色が違うと、どことなく品があるというか、車でサイドミラーだけ色が違うのと同じで、ちょっとお洒落に感じる。いや、何やら崇高にも感じるぞ。もしかしたら神聖な犬かもしれない・・・。などと思ってしまうのは、遥々本州最北端までやって来て、ちょっと高揚した気分でワンコと対面したからだろう。
2、山寺のにゃんこ(山形県山形 2003年9月)
「日本で一番の俳句人」との問いに、多くの人が名を挙げるのは松尾芭蕉だろう。江戸時代前期の俳諧師で、彼は俳句を単なる言葉遊びの芸事から、短詩、いわゆる文学に高めた。
彼の著書で一番有名なのは、「奥の細道」。奥州や北陸を旅した時の紀行本で、書き出しの「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」の一文は、高校の授業などで習い、耳にしたことがあるという人が多いと思う。
この意味は、「月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであって、過ぎては新しくやって来る年は、行き交う旅人のようなものである。」といったもの。
旅はよく人生の縮図のように語られる。旅というのは移動が本質であり、その移動の中で新しい出会いを繰り返す。その出会いにしても、新しい出会いを経験したり、月日が経つことで薄らいでしまう。
月日の流れという自然の摂理と、その場にとどまらず通り過ぎていく旅人をかけたのが、この言葉になる。俳句人らしい、いや、旅人らしいと言うべきだろうか。よく旅人の本質をついていると感心する。
この「奥の細道」への世間の関心は高く、旅の始まりの地である千住大橋付近に芭蕉像があったり、草加宿に百代橋が設置されていたり、俳句を詠んだ土地土地に句碑が設置されていたりと、ビックリするほどその痕跡が多い。
こういった過去の文人の足跡を辿る旅というのも、テーマがしっかりとするし、自分だったら・・・とか、現在だったら・・・などと想像力が働き、面白そうに感じる。
近年ではアニメの舞台となった場所を旅して周る、聖地巡礼という言葉を耳にするようになったが、芭蕉巡りの旅もそういった聖地巡礼と同じ系統・・・。いや、元祖的な存在になるのだろう。
芭蕉巡りの旅をしていたわけではないが、東北縦断の旅の途中、奥の細道に登場する山形にある山寺を訪れてみた。
山寺の名はよく聞くと思うが、これは通称になる。正式には宝珠山立石寺。奇岩怪石からなる山全体が、古くから修行と信仰の場として使われてきた。
山寺が世間に名が知れているのは、芭蕉が訪れたのもあるが、それよりも大仏殿のある奥之院まで1015段の階段を登らなければならないことにある・・・と思う。
この長い石段は、登ることで煩悩が消滅すると言われている。信心深い人にはご利益のあるありがたい階段となるのだろうが、実際問題、千段もの階段はちょっとした登山と一緒。1時間程度かかるので、かなりきつい。
ただ、登った分の価値はあり、山頂付近には天空に浮かぶお堂やら、素晴らしい景観が広がっている。もちろん苦労して千段もの階段を登った達成感で、実際よりも物事を美化して感じてしまうというのもあるだろう・・・。
ここを訪れた松尾芭蕉は、奥の細道で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と残している。どうやら夏に訪れたようだ。暑いし、階段がきつくてしんどいのに、追い打ちをかけるように蝉の声が喧しい。と、苦労している様子がうかがえる。
でも、そこは俳聖。凡人のように不満たらたらと詠んだりはしない。言葉遊びで喧しい蝉の声を俳句に封じてしまった。辛くても辛さを感じさせず、逆の発想で切り抜ける。それが一流ってやつなのだろう。(*私の勝手な解釈です。)
私的には風景や情緒、文学、宗教心よりも、山寺での一番の感情は達成感。千段の階段を登った後の気持ちを俳句ではなく、写真に残すならこんな感じ(上の写真)。ロッキーのポーズで写真を撮ってもらった。
凡人は凡人なりに楽しむのが一番。芭蕉のように、色々とひねって難しく考えると、旅の感覚が狂ってくる。旅人に大事なのは素直さ。素直な感動こそ大切にしなければならない。と思ったりする・・・。
さて、多くの人が訪れ、観光地化している山寺の参道には、多くの店や宿が並んでいる。その中には山寺焼の窯元のお店があった。山寺焼の文字に興味がいくが、ここで焼いているから山寺焼で、そこまで特徴があったり、名が知れているわけではないようだ。
その山寺焼のお店の前、夕日を浴びながら店の掃除をするおばさんと、そんなこと知ったこっちゃない・・・といった感じで、自分の毛繕いをする猫がいた。まさに猫ってな感じの様子。それと同時に、山寺ののんびりとした日常を感じられる光景だった。
この様子を見て、私も芭蕉のように一句。といきたいところだが、俳句の才能がないので思い浮かばない。芭蕉だったらどんな句を詠んでくれるだろうか。そんなことを想像すると楽しい。
国内編 東北1 東北2につづく