旅人の歯医者日記タイトル
旅人の歯医者日記

第1章 はじまりの虫歯
#1-8 夏休みと型取り

1997年8月~9月頃

忍耐の消毒が終わり、銀歯の型取りを行いました。(*第1章は全13ページ)

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18、決まらない就職

季節が進み、大学が夏休みになった。昨年は、約2か月の夏休みを丸々使って、トルコやその周辺国を一人で旅してきた。

小学生のころから色々と旅してきたが、海外を一人で旅するのはこの時が初めてで、いわゆるバックパックを担いでのバックパッカーデビューでもあった。

イスタンブールの写真
イスタンブール

トルコといえば、すぐに頭に浮かぶのがヒッタイトや東ローマ帝国、オスマントルコ帝国など、世界の歴史に名を刻む大帝国。

アルテミス神殿やトロイの遺跡もトルコにあり、人類の歴史が詰まった国といえる。面白いものでは聖書に出てくるノアの箱舟もあったりするが、これは微妙なところだ。

とはいえ、この時代の日本ではあまりトルコという国の知名度はなく、あっても風俗のソープランドのことをトルコ風呂なんて言い方がまだ残っていたことから、トルコから風俗を連想する人が多かった。

実際、バイト先の年配の店長に、「夏休みはトルコへ一人で行ってきます。」と言うと、「風俗かよ・・・。頑張れ青年。」とニタニタされてしまった。話を聞くと、少し前までは本当にそういう時代だったようだ。

カッパドキアの写真
カッパドキア

そのトルコでは東西文明の十字路と言われるイスタンブール、石灰岩の独特の地形をしたカッパドキアやパムッカレ、そして古代ローマの遺跡があるエフェスなど、世界に名を知れた世界遺産を中心に周っていった。

日本とは様々な面で異なるトルコ文化やイスラム文化、そして壮大な古代の遺跡を直に触れることができ、見るもの全てに感激するような旅となった。やっぱり自分の足で訪れ、自分の目で見るのは、テレビや本で見るのとは違うものだ。

でもそういった見聞よりも、当たり前のことが当たり前ではない状況の中、一人で考え、様々な事柄に対処していった経験の方に価値があったんじゃないかと、今振り返って思う。

世界を旅するイメージ(*イラスト:ジュンズ10さん)

(*イラスト:ジュンズ10さん 【イラストAC】

あれから一年。今年はなかなか決まらない就職活動のせいで、海外旅行どころではない。

仮に就職が決まっていたとしても、歯の消毒を行わなければならないので、やっぱり海外旅行どころではなかったのかもしれない。

海外を一人で旅してきたと人に話すと、「凄い!」とよく言われる。私自身も日本で普通に勉強しているよりも、色々と見聞が広がり、有意義であったと思う。

でも、あちこち旅をして見聞を広めても、何か研究テーマみたいな目的がないと、あまり就職活動でアピールにならない。といった現実を、ここ数ヶ月で嫌というほど思い知ることとなってしまった。

もちろん海外へ一人で出る積極性や行動力を買われることもあるが、それは日本にいてもなんとでもアピールできる部分であり、むしろ身近な話題からの切り口の方が面接する人にも伝わりやすいようだ。

要は、こういった旅はサークル活動の延長といった扱いでしかない。しかも話し方を間違えると、変わり者とか、協調性がないとか思われてしまうので、アピールが難しいともいえる。

不採用のイメージ(*イラスト:acworksさん)

(*イラスト:acworksさん 【イラストAC】

と、上から目線でえらそうに思っているわけだが、一番の問題点は旅の話をしだすと止まらなくなる私の性格の方だろう。

アピールにならない旅の話をしても面倒なやつになってしまうだけ。海外旅行の自慢話をしても、凄いと思ってくれる人ばかりではない。

そもそも旅で凄いことをやっと言うのに、学生の本分である成績表が悪過ぎては、説得力がないというものだ。

きっと南極大陸横断とか、5大陸最高峰制覇とか、ニュースで取り上げられるぐらいのことをしていれば、「こいつは凄い!」「稀に見る貴重な人材だ。」と、今の私の話し方や成績でも、甲子園の決勝まで勝ち進んだ投手のような扱いで、即採用になったことだろう。

もっと頑張ってそこを目指せばよかった・・・と、思ってしまっている時点で、やっぱり根っこの部分、最初のアプローチの仕方が世間一般とズレていたと思う。

19、遅い夏休み

といったわけで、迷路で迷子になった子供のような気分で夏休みを悶々と過ごしていたのだが、8月に入ってからようやく色々と決まり始め、それと同時に、長かった3分消毒治療もようやく終わった。

で、ふと我に返ってカレンダーを見ると、8月ももう半ば過ぎ。このままだとあっという間に8月が終わってしまう。

ラジオ体操のイメージ(*イラスト:スタジオジブリさん)

(*イラスト:スタジオジブリさん)

歯医者の消毒と、就活だけの悶々とした夏休みなんて嫌だ。これではラジオ体操の思い出だけで終わってしまう夏休みみたいなものだ。

大学の夏休みは9月中旬まであるので、まだ何かをしようと思えば、ちょっとしたことをできるだけの日数はある。

今からでも夏休みを取り戻すぞ。と、旅の計画を立て、真っ先に思い付いたのが、バイクで国道1号線、2号線、3号線を延々と進み、九州の長崎まで行く、九州バイクツーリング。

国土地理院地図 日本地図

国土地理院地図を書き込んで使用

ちょうど昨年卒業した先輩がいきなり福岡に転勤となり、退屈だと呻いているということなので、そこを目的地にしよう。そして色々と九州のうまいものをごちそうしてもらおう。

その他にも名古屋に仲間の後輩の実家があるし、広島には私の祖母の家があり、長崎にも私の友人がいる。それを拠点にすれば宿代がかからない。国道を延々と進んでいくので、高速代もかからない。

これならそんなにお金もかからないし、バックパックの旅のようで何やら楽しそうだ。バイク仲間の後輩を何人か誘って、九州を目指していった。

九州ツーリング 金印公園での写真
九州ツーリング 金印公園にて

その帰り道、広島の祖母の家にいたときのことだ。夏休みだしあと2日ぐらいゆっくりしていくか。ん、いや、何か忘れているぞ。なんだっけな・・・。バイトはしばらく休みをもらっているし・・・、あ~~、そうだ。歯医者だ。

財布の中に入れている診察カードを見ると、予約が明日の朝9時半になっていた。そうだ。そうだ。型取りをする日だった。バイク旅行に夢中になっていてすっかり忘れていた。

どうしよう。今は昼だから、夜に高速を飛ばして帰れば、朝には東京に到着できる。歯医者に間に合うな。でも・・・、けっこうせわしないぞ。

電話を入れて予約日を替えてもらおう。それがいい。と思いつつも、就活で少し電話ノイローゼ状態。電話をかけるのも、何気に嫌だな・・・。

電話恐怖症のイメージ(*イラスト:つばらさん)

(*イラスト:つばらさん 【イラストAC】

電話一本と、せわしなく帰ることを天秤にかけると、どう考えても電話一本入れる方が楽だ。楽だけど・・・、やっぱり電話するのに抵抗を感じる。

それに移動に使命感とか、縛りがあると、心の奥底にある何かがメラメラと燃えてくるのが、旅人というもの。きっとこれは、移動することが本質で、移動にこだわりたくなってしまう旅人の性(さが)というやつなのだろう。

といったわけで、「電話かけて断ればいいのに・・・。もっとゆっくりとしていきなさいよ。」と呆れる祖母を傍目に、バタバタと帰る準備をし、夕方に少し仮眠をした後、夜中、広島を出発した。そしてしにゃの高速道路をひた走って、無事に東京の自宅に到着した。

時計を見ると診察時間の2時間前。よく頑張った。一人耐久レースを無事に完走したぞ!ってなもので、チェッカーフラッグを受けた後のような満足感と疲労感で一杯だった。

チェッカーフラッグのイメージ(*イラスト:K-factoryさん)

(*イラスト:K-factoryさん 【イラストAC】

バイクから荷物を降ろし、自分の部屋で一息入れると、戻ってきたことに意義がある!ってなもので、気が緩んだとたんに急激に睡魔が襲ってきた。

これは駄目だ。眠くてしょうがない・・・。そりゃ、ほとんど走りっぱなしだったもんな。気を緩めると、疲れと眠気で一気に夢の世界へ引きずり込まれてしまう。

困ったことに歯医者の時間まで、まだ1時間半と微妙にある。もう少しゆっくり走ればよかった。無駄に体力と根性があるというのも問題だな・・・。と我ながら思ってしまう。

20、睡魔との戦い

このまま歯医者の時間まで起き続けていられる気力はない。うたたねして寝過ごすよりも、ちゃんと目覚ましをかけて布団で寝よう。

と、1時間ほど仮眠をとることにしたものの、やっぱりというか、目覚ましが鳴っても起きることができなかった。

寝ているのイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

「う~ん。駄目だ。歯医者・・・。また今度でいいや・・・。歯医者は逃げたりしない。」再び夢の世界に戻っていると、親にたたき起こされた。

「歯医者に行くために帰ってきたのでしょう」と言われれば、「そうだ。もっともな事だ」と寝ぼけた頭で納得し、歯を磨き、服を着て、惰性で歯医者へ向かった。

そして歯医者の自動ドアを威勢なく開け、診察カードを受付に出した。これで九州ツーリングの本当のゴールに到着。よく頑張った。頭上でくす玉が割れ、周囲から「おめでとう」という歓声が聞こえてくるような気がする・・・。

待合室の椅子に腰を掛けると、とめどもない達成感とともに、猛烈な眠さも込み上げてくる。眠い・・・。もの凄く眠い・・・。気を緩めるとパタンと寝てしまいそうだ・・・。

目を開く様子のイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

寝てしまわないように、無理やり充血した目をパッチリと開け、早く名前を呼んでくれ!と受付のお姉さんに念力を送りながら、順番が呼ばれるのを待った。

周りから見たら、きっとこの時の私は何かにとりつかれているような少し怪しい患者だったに違いない。

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幸いなことに、あまり待つことなく名前を呼ばれ、診察室に通された。いつもは恐怖のイスと感じる診察椅子が、今日は豪華リクライニングシートに見えてしまうほど眠い。

今日は型を取るだけのはずだから、麻酔の注射もないし、ドリルでガリガリと削るような痛い治療もない。ってことは、気合を入れて座っていなくてもいいか。

リクライニングのイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

半分まぶたが閉じた状態で治療が始まり、まず歯を掃除され、型を取るためにピンク色の粘土みたいな物を噛まされた。

その後は「固まるまでそのまま噛み続けてください」と言われ、ほったらかし状態。一人でぼ~としていると、とうとう睡魔が襲ってきた。

授業中の時のように、こっくり、こっくり。いや、寝てはいかん。治療中だ。

最初は頑張って睡魔と格闘していたが、その周期がどんどん短くなり、ついに陥落。私の魂は夢の世界の住民となっていた。

夢の中のイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

「起きてください。」と、肩を叩かれ目が覚めた。あっ、あれ、どこだ。ここ。そうだ、歯医者にいるんだ。ビックリして一気に目が覚めた。

私を起こした歯科衛生士の女性は、ちょっと機嫌が悪そうに「型を取り出します」と言い、すぐ口から型を取り出した。

そして、うがいをした後、いつもの消毒の液体を塗り、被せ物を被せ、今日の診察が終わった。

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家に帰ってゆっくり寝直そう・・・。いや、今さっきの衝撃的な目覚めで、眠気が吹っ飛んでしまったから寝なくても大丈夫かな。

それにしても・・・、面白い顔をしていたな。私を起こしていた歯科衛生士の人。診察イスでふてぶてしく寝る輩は珍しかったかもしれない。

奇妙な生物を眺めるような目つきで、私を見つめていたのが印象的だった。もしかして、なかなか起きなくて、「なんなの、この迷惑患者は」ってな感じで、真面目に怒っていたのかもしれない・・・。まったく困った患者だ。

呆れる女性のイメージ(*イラスト:アスパラガスさん)

(*イラスト:アスパラガスさん 【イラストAC】

思えば、一番最初の診察では自動ドアをビクビク開け、診察椅子に恐る恐る座っていたというのに、今ではぐっすり寝てしまうとはな・・・。

辛い治療の数々が私をたくましくしたってなものかな。それとも辛い就職活動の方なのかな・・・。

まあ、気が付かないうちに色々と人生の経験値がアップしていたということなのだろう。などと、自分の成長を少し微笑ましく感じながら、自宅に向かって歩いた。

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第1章 はじまりの虫歯
#1-8 夏休みと型取り
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