第1章 はじまりの虫歯
#1-10 歯の磨き方講習
1997年9月
奥歯の治療が終わった後には、歯の磨き方講習が待ち受けていました。(*第1章は全13ページ)
23、棚上げ
4月の下旬、大学の講義中に大きな穴が開いてしまった奥歯は、9月になってようやく治療が終わった。
他の病気や怪我で考えれば、全治4か月の重症という表現になるのだが、歯の場合はその言葉にあまり重みを感じない人が多いと思う。
友人に「歯の治療に4か月もかかって大変だったんだよ。」と話しても、「時間がかかったね」ってだけで、お見舞いの言葉一つもらったことがない。
その4か月もかかって完治した奥歯なのだが、完治したといっても完全な銀歯となってしまったので、最初のうちは金属のちょっと冷たい感じが気になった。
実際、舌触りが違ったり、噛んだ時の堅さに違和感があったりと、まあ色んな意味で一つだけ少し仲間外れのような感じがしていた。
それも時間とともに違和感が薄らいでいき、10日も経つと、口の中にすっかり馴染み、差し歯であることをほとんど感じることがなくなった。
振り返ってみると、久しぶりに歯医者にかかったと思ったら、原形をとどめないほど歯を削られたり、神経を取ったり、被せものがはまらなかったりと、なかなか刺激的なことが多かったというか、色々な体験ができた4カ月間だったように思う。
でも、4か月に渡ってお世話になりました。という事にはならなかった。レントゲンを見るかぎり、私の口の中にはまだ幾つもの小さな虫歯があり、更には、小学校や高校の時だったかに治療してもらった銀歯も古くなっていたり、隙間が虫歯になりつつあるものもあるとか。
それと同時に、歯茎も歯肉炎の兆候があるので、症状が軽い今のうちに処置しておいた方がいいとのことだった。
普段からきちんと歯を磨いていれば、こういう事にはならないのだが、旅に出るとめっきりと歯を磨く機会が少なくなってしまい、普段の生活でも磨かない事が気にならなくなるものだ。
いやいや、旅のせいにしてはいけない。実は昔から面倒臭いと、あまり歯を磨く生活をしていなかった。性格が面倒くさがり屋で、棚上げという言葉が大好きなのだ。
でも棚上げにすると、その時は楽だけど、積み上げ過ぎてしまったら、今回のように大きな雪崩として自分に崩れかかってきてしまう。そこが厄介だ。
なので、積み上げ過ぎない程度で済ませ、溜まったところで一気に片づける。そのさじ加減が棚上げの醍醐味ともいえる。
で、テトリスみたく芸術的に棚上げしまくって、最後に大逆転という生き方がとても好きなのだが、もう少ししたら社会人になることだし、もっと地道な感じに自分の性格を改めたほうがいいかも・・・と思ったりする。
24、歯磨き講習
大学最後の夏休みは、就職活動やら、歯医者やら、バイトばかりで、あっけなく終わってしまった。そして、大学生生活の締めくくりである後期課程の授業が始まった。
歯医者の治療の方も、穴の開いた奥歯が無事に治ったので、新しい治療の章が始まる。歯医者はあまり行きたくはないけど、今回ちゃんと歯が治ってみると、やはり歯があることのありがたみを感じたし、虫歯の治療の重要性も感じた。それに思っていたほど歯の治療は痛くなかった。
ってことで、この機会に治せるだけ歯を治してもらうことにした。こういう面倒なことは、気分が乗っている時に一気にやってしまわないと、通うのが面倒になってしまうものだ。
そういった心機一転、治療を頑張るぞ!といった気分で迎えた最初の診察日。重傷の奥歯が治り、次はどの歯を治療してくれるのだろう。と、期待してやってきたのだが、思ってもいなかった展開が待っていた。
なんと、歯科衛生士の女性に歯ブラシを手に持たされ、「歯の磨き方が悪いので、歯の磨き方を教えます。」と、歯の磨き方講習を受けなければならなかった。
そういえば・・・、前回の治療の最後に、「次回は歯の磨き方をどうのこうの・・・」と言っていたな・・・。それは覚えている。
でも、4か月もかかってやっと奥歯が治ったということで、ちょっと舞い上がっていた。なので、その話をちゃんと聞いていなく、「歯の磨き方ね。治療の前に少し説明してくれるのかな・・・」と、勝手に解釈して、そのことはすっかり頭の中から消えていた。
まさか今日の治療自体が「歯の磨き方講習」だったとは・・・、全く思いもしていなかった。不意を突かれたような展開だったので、驚くと同時に、えっ、マジ?子供じゃあるまいに・・・と、戸惑いを隠せない。
勘弁してくれよ・・・。ちょっと嫌がった顔をしてみるが、歯科衛生士の女性はそんなことはお構いなし。有無を言わさず、歯の磨き方講習を始めた。
「はい、ちゃんと歯ブラシを持ってください。」「つまむようにではなく、ちゃんと握るようにして持って・・・」
「その歯は下からブラシをあてる。」「その歯は歯ブラシが直角にあたるように磨いてください。あっ、それじゃブラシが歯に直角に当たっていないでしょ。」
などと、同じぐらいの年齢の女の歯科助手の人に言われるのは、結構恥ずかしく、またみっともない。
何よりも顔と顔との距離が近いため、目が合うと反らしたくなるのだが、横を向くと口まで横を向いてしまい、「ちゃんと前を向いてください。」と小言をもらう始末。
何かこの場を切り抜けるいい方法はないかと必死で考えるものの、どうにも逃げ道が見つからない。こりゃあ、駄目だ・・・。
海外で修羅場を切り抜けてきた頭脳も、この時ばかりはややオーバーヒートぎみ。ただひたすら早く終われと念じているだけだった。
歯医者からの帰り道。敗北感に浸っていた。磨き方は分かってるんだよ。ただ磨かないことが多いだけなんだ。俺はやればできる子なんだ。こんな講習に何の意味があるんだ。
そうブツブツと呟きながら歩くのだが、実際問題として、口の中は問題だらけ。自分で勝手にできると思うのは自由だが、他の人からしたら何の説得力もない。
磨き方よりも、虫歯があるなら虫歯の治療をしてくれよ。治療を受けに来たんだぞ。そう不満に思うのだが、過ぎたことを嘆いていてもしょうがない。次の治療から頑張ろう。
と言いたいところだが、この話には続きがある。なんと困ったことに、次回は「歯の磨き方、後編」をやると宣告されていた。またあれをやるのか・・・。もういいよ・・・。憂鬱だな・・・。自宅に帰る足取りはとても重かった。
その一週間後の予約の日、私が歯医者の自動扉を開けることはなかった。再び敗北感を味わうよりは、虫歯になってから来る方を選んでしまった。
奥歯に穴ができるまでほっておくほど無神経な人間が、いきなり歯医者に真面目に通うような人間に改心できるわけがなかったのだ。
やっぱり棚上げこそが俺の生き様。棚上げが似合う男なんだ。俺は・・・。
第1章 はじまりの虫歯
#1-10 歯の磨き方講習 #1-11 続・歯の磨き方講習 につづく