佐渡島一周ツーリング記
#6 賽の河原のお地蔵さん
2003年8月、友人と2人、1泊2日の行程で佐渡島一周を試みた時の旅行記です。(全17ページ)
10、賽の河原のお地蔵さん
北側の先端部にはもう一箇所訪れたい場所があった。それは賽の河原と呼ばれる場所。佐渡といえば金山と賽の河原。昔読んだ本の印象が強くて、私の頭の中に賽の河原のイメージがこびりついている。
賽の河原とは、冥途の三途の川にあり、親より先に亡くなった幼い子供の魂がたどり着く場所である。
仏教の教えでは、子が親より先に亡くなることは重い罪とされ、亡くなると賽の河原に送られる。そして罪滅ぼしのため、「一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為」と、両親のために小石を積み上げ仏塔を作り、現世でかなわなかった功徳を積もうとする。
しかし、仏塔が完成に近づくと、三途の川の番人である鬼が無慈悲にも崩してしまう。積んでは崩され、また積んでは崩されと、その繰り返しが延々と続き、その仏塔は完成することはない。そんなとても無残で、空虚感が漂う場所が賽の河原で、一応、この世にも霊場として各地に存在する。
バイクに乗り、弾崎灯台から3キロほど走ると、賽の河原の駐車場に到着した。ここから海辺に設置されている遊歩道を少し歩き、賽の河原へ向かうことになる。
遊歩道を歩いていると、通路脇の所々に小石が無作為な感じで積まれていた。まるで掃除で集められた落ち葉のよう・・・。賽の河原の意義や石積みの意味を知らなければ、そう見えてしまうかもしれないが、ちゃんと知っていると、こんな場所にも・・・。とうとう来てしまった・・・、賽の河原へ・・・。と気持ちが重たくなり、自然と足取りも重くなる。
そういえば、チベット文化圏ではこういう風に道の脇に石が積まれている光景をよく見たな・・・。と、何か異国の地にやって来たような感覚もしてくる。
道の脇に積まれた石の量が多くなると、賽の河原へ到着。この付近の海岸一面に所狭しと石が積まれていた。なんと凄い数。想像していた以上の光景に驚くと同時に、異様な雰囲気に圧倒され、金縛りにあったかのように立ち尽くしてしまった。
なんて殺伐とした光景なのだろう。現実離れした空気感に鳥肌が立ってくる。それにしても、よくもまあこんなに石を積んだものだ。すぐ波が迫る海岸なので、台風や冬の時化になると高波で崩れてしまうものもあるだろう。それをまた訪れた人が積み直しているのだろうか。
結局、現実の賽の河原でも亡くした子のために、延々と石積みが行われているのだな・・・。子を亡くした親の気持を考えると、なんとも言えない気分になる。
石がずらっと並ぶ海岸の陸側には大きく開いた洞窟があり、この中が賽の河原霊場の祭壇になっている。
洞窟内へ入ってみると、水子の霊を祀ったお地蔵様と風車ばかりといった異様な光景だった。なんかえらいところへやってきたものだ。空気が非常に重たく感じる。
異様な雰囲気に飲まれつつ、まずは本尊らしき水子の像に手を合わせた。粗相のないようにしておかないと、迷って私たちについてきっちゃったら・・・ちょっと困る。独身だし・・・、いや、そういう問題ではない。いつの間にかタンデムシートに子供が座っていたら、単純に怖い・・・。
いらんことを想像したら寒気がしてきた。このままでは怖くてバックミラーを見られなくなってしまう。賽銭を入れて線香も上げておこう。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・・。
お参りをした後、少し浜辺を歩いてみた。足元に石が積み上げられているので、崩さないように注意しながら歩く。もし崩してしまうことがあると、自分の姿が鬼に変わってしまうかもしれない・・・。なんてことはないだろうが、ここにはそういう空気感が漂っているので、注意するに越したことはない。
浜辺の岩場の高い位置には背丈が10cmもない小さなお地蔵様がたくさん置いてあった。岩にキノコのようにお地蔵様がニョキニョキと生えている様子は不気味にも見えるし、仲良く並んでいて楽しそうにも見える。こういうのは気分次第ってやつかもしれない。
ちゃんとお参りした後だからか、お地蔵様が潮風を浴びながら海を眺める様子はなんだか気持ちよさそうに見えた。
あまり長居をする場所ではないので、少し歩き回って駐車場に戻った。駐車場付近の海岸ではのんびりとくつろいでいる人たちがいた。他に人がいないので風景や空間を独占出来て気持ちよさそう。
よく見ると、この付近の海岸は砂浜でなければ、岩場でもなく、石浜となっていた。しかも河川敷(川原)のように丸っこくて平たい石がごろごろとしている。これだけ石が多い浜も珍しい・・・のかな。石積みをしやすいこの平たい石がなければ、ここに賽の河原ができなかったのかもしれない。
#6 賽の河原のお地蔵さん 「#7 巨大亀の謎解き」につづく