旅人が歩けばわんにゃんに出会う
東京編 渋谷区
東京の渋谷区で出会った猫などの写真を載せています。
1、忠犬ハチ公(渋谷区 2006年12月)
渋谷と聞くと、真っ先にJR渋谷駅前のスクランブル交差点を思い浮かべる人が多いだろう。交差点を渡る多くの人、そして周囲には近代的なビルが建ち並び、無数の広告群が彩りを加えている。とても都会的なイメージがあり、観光客に人気のスポットになっている。
近年では、外国の有名なスポーツ選手などが来日した際に、ここを訪れて写真を撮り、それをSNSなどに載せて日本に来た自慢にしていたりする。海外目線だと、どうやら日本を象徴するクールスポットに感じるようだ。
現在では、人気が人気を呼び、日本で必ず訪れる場所的な存在になっている。日本版、マンハッタンのタイムズスクエアってな位置づけになるだろうか。
渋谷は東京を代表する繁華街になるが、昔から若者の町といったイメージが強い。特にセンター街界隈には、若者が利用しやすいカジュアルなショップや飲み屋が多く、夜になると若者の集団をよく目にする。
新橋はおっさんの町。新宿は大人の町。六本木は外国人の町。渋谷は大学生の町といったところだろうか。まあこのへんの印象は、年代によって違うとは思うが・・・。
昔は良かった・・・などと言うと、年より臭いとか、懐古主義者などと呆れられたりもするが、これを見ると、昔はよかったと思うのではないだろうか。
そう、昔は渋谷のスクランブル交差点にゴミ箱が設置されていた。色々とおおらかな時代であったと思う。あと、無くなったものといえば公衆電話。ずらっと並んだ公衆電話は壮観だった。それと道玄坂にかけて路駐のバイクが車線をふさぐようにずらっと並んでいた。これはなくなってよかったか・・・。
世界的に有名な観光スポットになった渋谷スクランブル交差点があるのは、JR渋谷駅前。ちょうどハチ公口やハチ公前広場に面した場所になる。
ハチ公前広場には、忠犬ハチ公で有名なハチ公の銅像がある。ハチ公といえば、言わずと知れた忠犬の象徴。実際にどういった活躍をしたのかわからなくても、その名は広く知られている。恐らく日本で一番有名な犬となるだろう。
ハチ公について簡単に書くと、「ハチ」は秋田犬で、東京帝国大学農学部の教授、上野英三郎博士の飼い犬になる。昭和初期の話、博士に可愛がられて育ったハチは、最寄り駅の渋谷駅まで、大学へ通う博士の見送りをするようになっていた。
しかし、ある日、博士は勤務先の大学で脳溢血を起こし、そのまま急逝してしまった。突然、ハチは最愛の飼い主を失ってしまうのだが、そのことを理解できるわけがない。
博士の没後、ハチは色々な家に預けられたが、トラブルが続き、最終的に代々木に暮らす博士の知り合いの家に落ち着いた。
代々木から渋谷まではそんなに距離がない。博士の姿を求めて毎日のように渋谷駅へ通うようになり、暑い日も、雨の日も、雪の日も博士の姿を探して改札口前に座り続けた。そのけなげな姿に共感する人が増えていき、新聞で紹介されると、国内だけではなく、海外のファンも増えていった。
とまあ、ハチが何か凄いことをしたというわけではなく、飼い主を思うけなげな姿に共感した人が多かったというのが、実際のところになる。
ハチ公像を製作したのは、彫刻家の安藤照。実は諸事情によりハチの生前に完成し、設置されている。犬の銅像自体珍しいうえに、生前に設置されたという、なかなか珍しいケースとなる。それとともに、何も特徴のなかった渋谷に新たな名物スポットが誕生した。
このハチ公像は、彫刻としての評価よりも「ハチ公前で5時に集合」などといった感じで、待ち合わせスポットとしての評価が高いだろう。
もしこれが郷土の偉人の胸像とかだったら、この前で待ち合わせが行われなかった・・・というのは大袈裟だが、待ち合わせの場所として愛着がわかなく、あまり話題になることがなかったのではないか。
私自身のハチ公で撮った写真がないのは、訪れた当時はまだ待ち合わせ場所として機能していて、何度か写真を撮りに訪れたものの、像の周りに人が多いのはもちろんのことだが、像にもたれかかっている人も何人かいて、写真を撮りにくかったから。
また来る機会もあるし、また今度といった感じで延ばしていたら、結局撮ることなく東京を去ることなってしまった・・・。
ちなみに、地元の人は待ち合わせをするときはハチ公ではなく、西口にあるモヤイ像の前を使う。こっちの方が像の周りも、周辺も混雑していないので、待ち合わせをしやすいから。
まあ、携帯電話が普及してからは、こういった定番の待ち合わせスポットで待ち合わせをする人は以前よりも少なくなった。混雑する場所ではなく、ショップや飲食店で電話がかかってくるまで待てばいいわけだから・・・。これも時代の流れというやつだろう。
話をハチに戻すと、1935年(昭和10年)3月8日にハチは渋谷で亡くなった。死因はフィラリアやガンなどといった複合的な要因。まあ病死ということになる。
この頃には全国的に有名になっていたので、死んだ後は多くの人が悲しみ、葬式も行われた。そして、ハチの亡骸は剥製にされ、現在は上野の国立科学博物館に所蔵されている。遺骨は骨格標本にされたが、1945年5月25日の東京大空襲(山の手大空襲)によって焼失したそうだ。
お墓も造られ、港区の青山霊園にある上野博士のお墓のそばに葬られた。とはいえ、身体は剥製やら標本になっているので、ちゃんとハチはここに眠っているのだろうか・・・と考えると、少々複雑。
でも、大好きだった博士のそばに墓があるというだけで、犬好きとしては気持ち的にうれしい。
2、古代住居跡とにゃんこ(渋谷区猿楽町 2006年12月)
渋谷といえばいかにも都会といったイメージで、賑やかな繁華街を思い浮かべる人が多いだろう。現在の賑わいを見ると、古くからこの地が栄えていたと思えてしまうが、渋谷の町が大きくなったのは、大正時代からである。
鉄道がつながった大正初期からぼちぼちと人が増え始めていき、大きな転機となったのが、大正12年9月に起きた関東大震災。この震災後には、都心から郊外に暮らす人が爆発的に増え、渋谷も急激に開発が進んだ。
渋谷の開発の後押しをしたのが、大正13年に世田谷の駒沢に出来た駒沢給水所。これによって多摩川からくみ上げた水が世田谷を横断し、渋谷へ送られるようになり、人口増によって問題になっていた衛生問題を解決。渋谷の更なる発展につながった。ある意味で、渋谷の発展の立役者である。と、世田谷区民なので自慢したくなる。
都会的な町で、ビルだらけといった印象の強い渋谷だが、当然のことながら古くから人の営みがあり、古代人もこの地に暮らしていた。
渋谷に遺跡があると聞くと、なんか似つかわしくない感じがするが、遺跡が幾つか残されている。一番有名なのは、代々木にある代々木八幡神社の遺跡。ここは古代の住居跡が復元されている。
渋谷の南にある猿楽町にも、弥生時代の遺跡が残っている。正式名は渋谷区立猿楽古代住居跡公園で、渋谷区立猿楽小学校に隣接するようにある。
遺跡よりも、まず猿楽町という町名の方に興味がいってしまうが、これは古墳時代末期の円墳、猿楽塚に由来するようだ。ヒルサイドプラザのそばににある猿楽神社は、その猿楽塚の上に建てられている。
猿楽遺跡。どんな遺跡だろう。遺跡自体は小さいとのことだが、渋谷にある遺跡というだけで、アンバランスさに好奇心がうずいてくる。公園にもなっていることから、案外凄い遺跡だったりするかもしれない。
興味津々といった感じで猿楽遺跡を訪れてみたのだが、そこにあったのはコンクリートのくぼみだけ。なんだこれ。これでは干上がった池ではないか・・・。いや、よく見ると、くぼみの中ににゃんこがいる。まるで猫のプールみたい・・・。そのまま水を張ったら、猫用のプールになりそうだ。
にゃんこはコンクリートの上でくつろいでいた。公園内にはちょうど清掃する地域の人たちがいたのだが、にゃんこの安心しきっている様子からすると、地域で大事にされているのだろう。その点では安心。
それにしても・・・、いくら遺跡好きとはいえ、こんなコンクリートのくぼみを見ても面白くない。これを残す意味はあったのだろうか。普通に遊具を置いた公園にした方がいいのではないだろうか。
あまりにも期待外れで、少々腹立たしく思ったのだが、案内板を見て納得。公園を造った時に建物も復元したのだが、火事で焼けてしまったとか。で、とりあえず土台部分を保存するためにコンクリートで覆ったようである。
国内編 東京・渋谷区