第2章 折れてしまった前歯
#2-6 差し歯になる前歯(中編)
1999年2~3月
折れた前歯は差し歯として治療することになり、強烈な麻酔を打たれました。(*第2章は全17ページ)
17、歯を削る憂鬱
気絶しそうなほど強烈な麻酔注射を前歯に打たれた後は、診察椅子で半分放心状態になりながら麻酔が効くのを待った。
時間の経過とともに、じわじわと前歯や口周辺の感覚が鈍くなっていき、5分ほど経つと、口の周りが突っ張ったような感触となった。口を左右に動かしてみたり、歯をカチカチとかみ合わせてみると、もぞもぞと感覚が鈍く、あまり自分の口という気がしない。
麻酔が効いてきたようだ。前歯の辺りを叩いてみるが、全く感覚がない。ほっぺの辺りを触っても、へんな感触。鼻をつまんでも、他人の鼻をつまんでいるかのよう。というか、顔全体に麻酔が効いているようで、顔全体がパンパンに腫れ上がっているような違和感がする。
強烈に痛かっただけあって、効果も絶大だな。これならちょっとやそっと・・・、いや、ガリガリと歯を削っても痛くないだろう。あまりの効果にニンマリと笑おうとするのだが、顔が引きつって表情が変わらない。うげっ、顔面がマヒした状態になってる・・・。
今まで口の中に多くの麻酔を打ってきたが、こんな状態になるのは今回が初めて。今、自分はどんな顔をしているのだろう。引きつった表情になっているのだろうか。それとも、能面のような表情のない無機質な顔になっているのだろうか。
顔が膨れ上がっているようにも感じるのだが、もしかしてアンパンマンみたいなユニークな顔になっていたりして・・・。いろいろと気になってしょうがないのだが、あいにくと手元に鏡がないのでわからなかった。
しばらく待っていると、他の患者の治療が切りがよくなったようで、先生が戻ってきた。一度に数人の患者を診ているので、私一人にばかりかまっていられなく、今日は麻酔が切れてしまうのでは・・・とまではいかないにしても、効果が薄まってしまうのでは・・・と、心配してしまうほど待たされた。
この歯医者に通い始めた頃は、大きな診察室で一度に何人もの患者を同時進行で診るなんて、まるでブラックジャックのような凄腕の先生だな・・・。なんて手際がいいんだろう・・・と感心していたのだが、ずっと通っていると、このシステムの悪い面も多々感じる。
まず、同じ部屋に他の患者がいることに関しては、「治療中に心強く感じる」と思ったのは最初の頃だけで、他の人から治療しているのが見えるし、今回のように大きな声を上げたときにはプライバシーがあったらな・・・と思ってしまう。それに、診察椅子はある程度離れているとはいえ、多分、衛生的な観点からも問題がありそうに感じる。
とはいえ、人が多いベビーブームの昭和の時代を生きてきたので、まあこういう集団的な検診みたいなことは日常的なこと。これが当たり前だと思えば、そこまで気にならない。もし、大部屋と個室で値段が違うなら、間違いなく安いこういったスタイルを選ぶだろう。
私的に一番問題に感じるのが、今回のように歯医者で長く待たされること。治療がスムーズに進むかどうかは、その時にいる患者次第となり、歯を削るなどといった難しい治療を行うのは先生一人なので、今回の私のように手間や時間がかかる患者が複数人いた場合、どうしても割を食ってなかなか診てもらえない患者がでてきてしまう。
もちろん歯医者側としても、予約を入れる段階でその辺はちゃんと考慮している。でも、予測のしにくい新規の患者だったり、実際に患部を診てみたら想像よりも深刻な状態だったり、或いは急患が入ってしまうということもあるだろう。
医療機関として色々としょうがないといった事情もあるかもしれないが、それは病院側の事情というやつで、やっぱり患者としては治療がある程度てきぱきと進んでいかないと、不満を感じてしまうものだ。
更に言うなら、診察中にちょっと待たされるだけならまだいいが、酷い時には予約の時間内に全ての患者を診察し終えることができなく、次の時間帯を予約している人たちにまで影響することもある。
その場合、予約時間前にやってきても待合室で待たされ、診察室に入っても先生に診てもらうのに待たされ、治療も内容によってはてきぱきと進んでいかないと、かなり不満が溜まる展開になる。
もちろんそういったことは頻繁にあるわけではないが、「患者を待たせ過ぎる歯医者」と不満に感じてしまうと、次回、歯医者にかかるときは別の歯医者に替えよう、となってしまう人もいるだろう。
この診察システムは、治療している側は効率よく患者を診察することができ、ロスする時間は少ないが、患者の方はロスする時間が多くなりがちなので、その辺の不満をいかに少なくするかが重要である。
また、診察する側に待ち時間の不満を上回るほどのカリスマ性や技術力があるということも、肝になってくるのではないだろうか。
話がそれてしまったが、「お待たせしました」と、先生が私の診察椅子にやってくると、麻酔が効いていることを確認し、「これから歯を削ります。準備をするのでちょっとお待ちください。」と、補助をする歯科衛生士を呼び、歯を削る準備にとりかかった。
いよいよ歯が削られる・・・。ただでさえ半分になってしまった前歯が、また一段と小さくなってしまう・・・。差し歯にするためにはしょうがないとはいえ、これから自分の歯が原形をとどめないほど削られていく瞬間を迎えてみると、色々とこみ上げてくるものがある。
他の人からすれば、もう折れてしまっているから仕方ない。今更小さく削っても一緒。差し歯として治るのだから気にする必要はない。などと思うかもしれない。まあそれが正論だし、冷静に考えればその通りだ。もう削って治療するしか手段がないのだから。
でも、当事者としてみれば、そう簡単に割り切って考えらるものではない。乳歯から生え変わった時からずっと私と一緒にあり、鏡を見るといつも映っていた前歯。日々の食事などで役に立ってくれた前歯。それが原形をとどめないほど削られてしまう。しかも二本とも・・・。その事実は傍から思っているよりも遥かに重たく心にのしかかってくるのだ。
抜いてしまうわけではないが、さよなら私の前歯・・・。そう心の中で前歯に別れを告げると、悲壮感がとめどもなく胸に込み上げてくる。いかん涙が出てきそう・・・。ぐっと我慢するのだが、先ほどの強烈な麻酔の注射のせいで涙腺が緩んでしまっている。どうにもこらえられなく、目から少しばかり涙が溢れ出てしまった。
18、Don't Move!(絶対動くな!)
先生と補助する歯科衛生士の準備が整い、「では、治療を始めますので、椅子を倒します。」と声をかけられた。
これから半分に折れてしまった前歯を、がっつりと削る治療が始まる。前歯は口の一番前にあるので、鏡で見やすく、歯を磨く際にも磨きやすい。虫歯ができたとしても発見しやすいし、何か問題が起きたときの違和感も感じやすい。
なので、前歯を治療で少し削ったことがあるという人はそれなりにいても、前歯をがっつりと削るまで深刻な事態になったという人は、そんなに多くはないだろう。そういう意味では、とても希少価値のある経験になりそうだ。
しかも、今回の治療はちょっと特殊で、半分に折れてしまった前歯を、差し歯を取り付ける為の土台の形に削っていく。言ってみれば、歯から土台を削り出すといった、まるで彫刻のような治療になる。
旅をしていると、土産物屋にラクダなどの骨から削り出したアクセサリーや、小物などが売られているが、まさにそんな感じかもしれない。
ただ、人間の歯はそんな動物の骨とは比較にならないほど小さいので、とても細かく、精巧な作業が要求される。そのため、歯を削る前の先生からの注意はいつもよりも長いものだった。
「これから歯を削っていきますが、とても細かい作業になります。慎重に作業を進めていくので、時間がそれなりにかかってしまいます。くれぐれも削っている最中に顔を動かさないでください。例え顔にハエが止まってもですよ。万が一、途中でくしゃみが出そうな場合は、すぐに手を挙げて知らせてください。もし削っている最中に手元が狂ってしまうと、大変なことになります。最悪の場合、差し歯が差せなくなるといったこともありえますので、くれぐれも顔を動かさないでください。削っている時間が長く、途中で辛くなるかもしれませんが、できる限り我慢してください。もしどうしてもダメな場合などには、必ず手を挙げて知らせてください。絶対ですよ。失敗すると大変なことになりますから・・・」
と、削っている最中に絶対に顔を動かさないことを、何度も私に念を押してきた。
まあそうだろう。土産の彫刻のように、失敗したら別の材料で作り直すというわけにはいかないし、床屋でちょっと切り過ぎてしまい、「すみません。伸びるまで我慢してください。」というようなわけにもいかない。折れてしまった歯が元の状態に戻らないのと一緒で、削り過ぎてしまったら取り返しがつかない。覆水盆に返らずというやつだ。
最悪な展開にならないためにも、患者としても緊張感をもって治療を受けなければならないな。これ以上、歯で不幸な目には合いたくないし・・・。
それにしても・・・、今回の治療は今まで受けてきた治療の中でも、断トツに難易度が高そうだ。いつもとは違った先生の真剣な表情からも、それを察することができる。
小さな歯を精巧に削ることになるので、時計職人ばりの高度な技術とか、熟練された匠の技が必要になりそうだ。私が動かないことも大事だが、肝心の先生の腕の方は大丈夫だろうか・・・。
人を見た目で判断してはいけない。それは分かっている。だが、先生は色黒でサーファーといった雰囲気をしている。なので、ちょっと見た目が軽く、言っちゃ悪いけど、歯科医の権威とか、名医とか、玄人医師といった言葉が似合わない。
私が動かなくても、先生の方が失敗してしまうといった可能性も無きにしも非ず・・・。そんな不安が頭を一瞬よぎるのだが、この点はそこまで心配にはならなかった。
もし初めて訪れる歯医者だったら、削っている間、「この先生に任せても大丈夫だろうか」「サーファーのノリで適当に治療されるのでは・・・」と、心臓がバコバコするぐらいに心配になるかもしれないが、2年近く通ったので先生の腕が悪くないのは分かっている。
とびっきりいいかと言われると、そこは専門家ではないからわからないが、この先生は一生懸命治療をしてくれるし、これぐらいの治療は何も問題なく済ませてくれるはず。2年ほど治療を受けてきた経験と私の感が、そう太鼓判を押してくれる。
ここは先生の腕を信じよう。少なくとも私が削っている最中に動かなければ、何も問題は起きないはず。自分の未来のためにも、そして一生懸命治療をしてくれている先生のためにも、何があっても絶対に動かないようにするぞ。
そうだ。自分に石化の暗示をかけて、削り終わるまで石像になったつもりでいよう。無念無想。お地蔵様やモアイのような心境になっていれば、治療も苦痛に感じないかもしれない・・・。
第2章 折れてしまった前歯
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