旅人とわんこの日々
世田谷編 2004年 Page4
ワンコのいる日常と旅についてつづった写真ブログです。
4、トラブル続きの南米旅行・後編(2004年1月)
ペルーの山間部にクスコという町がある。この町はかつてインカ帝国の都として栄えていた。しかし、スペインの侵略によってインカ帝国は滅亡することになる。クスコの町は徹底的に略奪された後、スペイン風に造り変えられた。なかなかひどい話である。
でも、歴史的経緯や現在の町の美しさから、町自体が世界遺産になっていたりする。色々と見所の多い町ではあるが、歴史的事情を考えると複雑である。
この町の一番の見所は、標高・・・って言うのは変だが、なんと標高が3400mもある。日本一高い富士山が3776m。二番目に高い北岳が3193m。日本では富士山しか対抗することができない高さに町があることになる。なので、こんな高さでも人が普通に暮らせるんだ・・・と、驚く日本人は多い。
このクスコへは、地上絵で有名なナスカから夜行バスで向かった。ナスカの標高は400mほど。なので、3千メートルもの高さを一晩で登っていくことになる。
標高が上がるにつれて気温は下がるので、途中からは寒くてしょうがなかった。座席で身体を丸め、我慢して寝ていたが、クスコに到着してみると、頭痛がひどく、熱もある。おまけに鼻水も止まらない。
元々体調が悪かったとはいえ、完全に風邪をひいてしまったようだ・・・。もっと温かい格好をしてバスに乗ればよかった・・・。もう一日延ばして、昼の便に乗ってもよかった・・・。などと後悔しても遅い。
とりあえず暖かくして寝れば治るだろう。宿にチェックインすると、そのままベッドイン。昼過ぎに目を覚ますのだが、起きたら完治・・・してはいなく、一層悪化していた。
頭がガンガンする・・・。暖かくして寝れば、少しはよくなるはずなのに、むしろ悪化しているなんて、尋常ではない。もしかしてこれって風邪ではなく、高山病ではないのか。
宿の人に聞いてみると、高山病の症状に似ているけど、医者じゃないからなんとも言えないとのこと。旅行保険に入っているので、これもいい経験とばかりに病院を訪れてみることにした。
病院での診察結果は、予想通り高山病。でも、ひどい状態ではないので、今すぐ高度の低い場所に降りたりする必要はなく、息が上がるようなことをせず、ゆったりと過ごしていれば、そのうち普通の状態になるだろうとのことだった。
でも変だな。今までメキシコ、エクアドルと標高の高い場所を旅してきたから、高い高度には耐性ができているのでは・・・。
医者に聞いてみると、体調が悪いと高山病になりやすいんだとか。「ここに暮らしている人でも、体調を崩すと高山病になることもあるんだよ。」と言われると、「そうなんだ。」と、納得。
実際、各国から訪れるツアー客も、飛行機に長く乗り、過密日程でやって来るので、クスコに着くなり、高山病を発症してしまう人も少なくないんだとか。
まあとりあえず、大事に至らなくて良かった。今までハードスケジュールで旅してきたし、ここで少し休むのもいいかもしれない。どのみち今日マチュピチュ行きの鉄道沿いで崖崩れが起き、列車が運休となった。明日復旧したとしても、新規の客は乗るのは厳しいらしいし。
翌日になると、症状はかなり緩和され、食欲も出てきた。何か食べなければ・・・。胃腸にやさしいものがいい。そうだ。あれにしよう。近所の商店へ行き、米とシーチキンを買ってきて、おにぎりを作ることにした。
で、宿のキッチンを借り、鍋で炊飯を行うのだが、米がうまく炊けない。そう、ここは標高3400mの高地。気圧が低くて水が沸騰しないのだ。出来上がってみると、びちゃびちゃで、しかも芯があるといったひどい状態。
こりゃまいったな・・・。おにぎりになりそうにない。というより白米としても食べられない。仕方ないので、卵も買ってきて、シーチキン粥にして食べることにした。
体調が治ったら南米旅行のハイライトと言えるマチュピチュへ。さすが世界に名が知れた遺跡だけあって、圧巻の存在感。とても素晴らしい。
でも山の上にあり、かなり歩かなければならないのが、困った部分。高山病上がりなので、あまり無理ができなく、100%楽しむことができなかった。
マチュピチュ観光が終わったので、次はチチカカ湖の湖畔にある町プーノへ行こう。もう十分クスコに滞在した。いや、滞在しすぎた。早速、明日移動しよう。
マチュピチュから戻ると、宿に二人組の日本人の若者がいた。ここのところ人と話すこともなかったので、一緒に食事に行き、マチュピチュの行き方や高山病の恐ろしさなどを伝授したり、旅の話で大いに盛り上がった。
この二人は、明日、マチュピチュに行き、明後日プーノに行くとのこと。だったら私も出発を一日延ばして、一緒に行こうかな。一人だと心細いし・・・。うん、それがいい。明日は家族や友人に絵ハガキを書いたり、町の散策をして過ごそう。
一人旅では、一度緊張感が途切れ、気持がダレてしまうと、なかなか修正が難しい。どうしても楽な方へ流れてしまうものだ。そして、この精神的な甘えや、緊張感のなさがトラブルのもとになってしまうことが多い。
朝早く起き、プーノ行きのバスに2人の日本人旅行者と一緒に乗り込んだ。やっぱり同行者がいると心強いし、楽だ。それに会話する相手がいるので、楽しい。
最初はおしゃべりをし、そのうち眠いから寝ようと、リクライニングを倒して寝ていた。で、夕方前にバスがプーノに到着するのだが、バスを降りる準備をしようとして気が付いた。か、か、かばんが軽い・・・。
中を開けると、やられた・・・。カメラがない。犯人は車掌とその仲間。座席のところへ置いておいいた荷物をお節介にも頭上の荷棚に上げたのが車掌だった。
一人だと間違いなく気を付けていた・・・、というのは言い訳になるのだが、他に旅行者がいるからと、バスの車内では気が緩みっぱなしだった。
鞄の中にはカメラ一式が入っていた。これだけだったらまだよかったのだが、パスポートやトラベラーズチェックなどが入っている貴重品袋も、身に付けずに鞄に入れたままにしていたという間抜けぶり。
ずっと気を張って注意していたのに、他に旅行者がいるからと油断してしまった。そもそもとして、一人で移動するのが億劫だと、一日日程を延ばした時点で、こうなる運命となってしまったのだろう。
そんな腑抜けた気持では、悪党を寄せ付けない防御のオーラも出ず、全身が隙だらけの無防備状態。悪党から見ればいいカモと目に映っただろう。
実際、前回のユーラシア大陸横断でも、スリやら強盗などのトラブルに遭っている。その時も落ち込んでいたり、頭にきていたりと、冷静さを欠いていたり、今回のように腑抜けているときだった。
高山病で寝込んでから、歯車が狂ってしまったな・・・。弱り目に祟り目とはこういうことを言うのだろう。しっかりしろよ。旅人。ここは海外だぞ。しかも南米だぞ。盗んだやつに腹が立つのは当然だが、それ以上に気を抜いた自分の甘さに腹が立ってしょうがない。
強烈なビンタを食らったかのように目が覚めるのだが、もう時既に遅し。旅も人生もやり直しの効かないドラマなのだ。
といったわけで、プーノに到着すると、すぐ警察に行き、盗難証明書などを書いてもらった。お金は少し分散して隠していたし、財布の中にクレジットカードがあるので、当面はキャッシングでしのげる。
カメラもコンパクトをバックパックの中にいれていたので、それを使えばいい。一番の問題はパスポート。これがなければ旅は続けられない。まして、国境を越えることができない。
プーノからは国境を越えてボリビアに入国する予定だったが、それはかなわないこと。すぐに首都リマに戻り、日本大使館を訪れ、パスポートの再発行の手続きを行った。
そして電話でトラベラーズチェックの再発行手続きをしたり、予備のクレジットカードの停止や航空会社にチケットが盗まれた報告をしたり、色々なことをやらなければならなかった。
パスポートとトラベラーズチェックの再発行が速やかに終われば、旅に復帰できる。飛行機に乗ってボリビアに行くというのもありだ。このままでは終われない。
そう気を吐いていたのだが、国柄なのか、もの凄く手続きが大変というか、やたらと時間がかかる。無情にもリマでの足止めが続き、実質、ここで南米の旅は終わってしまった。
南米旅行は、後半、うまくいかなかなく、予定していたボリビアなど訪れることができなかった。失敗といえば失敗となるのだが、このおかげで素敵な出会いもあったので、私の中ではこの置き引き被害は100%悪というわけでもなかった。
まあ人生は色々。旅も色々。巡り合わせの縁というのは不思議だな・・・といつも思ってしまう。
それにしても、やっぱり南米は恐ろしかった。油断も隙もないというか、隙を作ってしまうと、すぐにやられてしまう。
南米といえばサッカーの印象が強いと思うが、サッカーの対戦でも日本人選手などを手玉に取るようなしたたかさが目立つ。大袈裟に言うなら、そういった世界が、まさに南米の日常になるだろうか。
でも途中まではうまくやれていた。最後までそれが続けられていたらな・・・。もっとうまく旅ができると思っていたけど、結局のところまだまだ私は未熟だったということなのだろう。覆水盆に返らず。いい勉強になったとか、人生経験になったと思うしかない。
メキシコに戻ると、このまま帰国するのも、尻切れトンボで嫌だな・・・。と思っていたところに、同じような境遇の旅行者がいて、意気投合。
一か月帰国を伸ばし、日本人宿の手伝いをしながら一緒にメキシコ滞在を楽しんだ。世間ではこういうのを沈没というのだろうけど、私にとってはとても貴重で、思い出深い滞在となった。ほんと、巡り合わせとは不思議なものだ。おかげでいい形で旅を締めくくれたと思う。
ただ、帰国したのち、病気の父親がいるというのに何やっているの!と、親戚の雷が落ちたのは言うまでもない・・・。
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