旅人とわんこの日々
世田谷編 2006年Page19
世田谷(砧公園)での犬との生活をつづった写真日記です。
27、中央構造線と耐久レース(2006年11月5日)
1日目は木曽路を巡りながら名古屋の後輩の家へ。2日目はその後輩とバイクで奥三河巡り。3日目の今日は東京に戻る日。往路は甲州街道、中山道と通ったので、復路は被らないように東海道で・・・というのが旅人らしいルート選択になるだろうか。
やっぱり同じ道を戻るよりは、違った道を通る方が素敵な新しい出会いに遭遇する可能性が高そうで、移動にワクワク感が大きくなる。
さて、どうやって帰ろうかな。いや、無職の身だ。もう一泊していくか・・・。その時々の気分で自由に方向を決めることができると、心から旅をしている気分になる。
よく人から、「そんなきままな旅をしたい」「そういった気ままな旅に憧れる」と、言われる。かつてユーラシア大陸横断をしていたときは、毎日が旅漬けだった。西へ向かうという旅ではあったが、それは建前。言ってみれば江戸時代の伊勢参りみたいなもの。興味のある場所、面白そうな場所があれば、迷わず道を逸れて訪れていた。
ほんと、仕事を辞めて行う長期の旅は、時間や日常に全く束縛されないので、旅の自由度が高い。まさに好きなことを存分にできる環境だといえる。
でも、余りにも自由過ぎると、方向感覚がなくなってくる。そして自分が本当は何をしたいのかさえ忘れてしまいそうになる。自由というのはメリットも多いが、デメリットも多い。
なので、移動に飛行機を使わないとか、バスのみの移動にするとか、必ず首都を訪れるとか、その国の大きな遺跡やら、有名な美術館を必ず訪れるとかといった縛りを付け、不自由な要素を取り入れる人も多い。
また、きままな旅の途中で人と会う約束が入ると、日常に呼び戻されたように感じ、ガッカリする・・・。って人もいるかもしれないが、非日常の世界にいる自分に、天から日常の糸が降りてきたような感覚になり、うれしくなる。旅にこういった当てを積極的に入れて、移動に意義を持たせたり、行動をダラダラさせないようにする人もいる。
自由で気ままな旅よりも、適度に当てや不自由さがある旅の方がメリハリがついていい。というのが、ユーラシア大陸横断を成してからの私の持論である。
今日も、実はちょっと立ち寄る当てがあった。その当てとは、今日は昨年参加したスポーツランド山梨のバイクレース開催日で、友人と後輩Kが出場している。帰りに応援がてら顔を出す約束をしていた。
サーキットのあるのは山梨県韮崎市。甲州街道沿いになる。東海道を通って国道52号で身延を北上する手もあるが、現在地が名古屋の北の方になるので、距離的には往路同様に中山道から甲州街道へと走っていくのが早いし、道も空いているだろう。
とはいえ、同じ道を通っても芸がない。木曽路の東側、木曽山脈を越えると、天竜川沿いに開けている。こちらはJRの飯田線が走り、中央高速道路も通っている。木曽路に対して、伊那路とも言われている。
伊那路は国道153号線。その153号線の東側を並行して、南アルプスの山間部を縦断するように国道152号線が通っている。この道でも諏訪湖の方へ北上できる。
このどちらかを通っていこう。と、迷うまでもない。せっかく紅葉の時期だ。南アルプスを縦断する国道152号線の方が、きっと紅葉する山々が魅力的に見えるはずだ。所々道が狭く、すれ違いが困難らしいが、バイクなのでちゃんと舗装されてさえいれば問題ない。
ということで、名古屋から東へ向かっていき、天竜川を越えた先で152号線を北上していき、諏訪湖方面を目指そう。そして甲州街道に合流したらサーキットのある韮崎へ進んで行こう。
当日の朝、後輩と朝食を食べた後、後輩や家族に礼を言い、出発した。後輩は、「諏訪湖まで一緒についていこうかな・・・」と迷っていたが、もともと予定として入れていた、レース仲間とバイクを整備する約束をドタキャンするわけにもいかない。残念そうな顔で見送ってくれた。
まずは名古屋から国道363号線を東進していった。途中、大正ロマンを感じられる町、明智を通っていくが、ここは以前訪れたので通過。
山間の道を走っていると、秋の朝らしく少し靄がかかっているのがいい感じ。もしかしたらいい景色が見られるかも・・・。山城の岩村城で有名な岩村に到着すると、岩村城でなく、寄っても時間がかからない岩村町の農村景観日本一展望所を訪れてみた。
ここも以前訪れたことがあるが、少し靄がかかった秋の景色も素敵だろうと訪れてみたのだが、予想通りなかなかいい感じだった。日本一の農村景観と感じるかは、それぞれの主観に拠るとは思うが・・・。
岩村からは国道418号線を進んで行く。どんどんと山が深くなり、道も曲がりくねり、所々すれ違うのが困難なほど細くなっていた。なにやら秘境へ向かっていく感じがしていい。
ただ、山の谷間に設置されている道なので、余り見晴らしがよくなく、途中でバイクを止めて写真を撮りたいと思うほど印象的だと感じる風景は少なかった。
黙々と山道を走ってくと、天竜川にたどり着いた。この付近は谷が深いので、峡谷といった感じ。山奥へ来た感じが一層強くなる。
少し天竜川沿いを進むと、天竜川橋があった。全長230mほどのトラス橋で、1955(昭和30)年に建造されたもの。なかなか趣きのある橋だった。
天竜川橋を渡り、天龍村を通過し、さらに国道418号を進んで行くと、国道152号に接続。ここからは一本道・・・ではなく、国道が未完成のようで、狭い林道を通らなければならなかった。
この林道は道が狭いし、曲がりくねっていると、なかなか厄介。車ではあまり通りたくない。ただ、山の上の方へ登っていくと、眺めはいいし、紅葉もきれいだった。
152号線を北上していくと、川沿いにちょっと開けた大鹿村に到着。ここは中央構造線で有名になるのだが・・・、それよりも着いた早々目に飛び込んできたのは、凄まじい崖崩れの跡。山がえぐられるように広範囲にわたって崩れている。
ここまで大きながけ崩れの跡は珍しい。というより、目の当たりにすると恐怖で鳥肌が立ってくる。いつ起きたんだ。となるのだが、結構前になるようで、昭和36年の集中豪雨の時になる。なんでも山の斜面が一気に崩れ、その土砂は対岸の集落へなだれ込み、42人が犠牲になったそうだ。
「中央構造線」という言葉は聞いたことがあるだろうか。いわゆる地質学上の断層(地層のずれ)の大規模なものを構造線と呼び、中央構造線は関東から九州まで伸びている。
形成されたのは遥か太古、日本列島がユーラシア大陸から分離する以前になる。太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜り込んでいるのが、ちょうど日本列島付近になる。日本列島がユーラシア大陸に引っ付いている頃のプレートのぶつかる最前線が中央構造線だったというのが分かりやすいだろうか。
断層活動が最も盛んだったのは、白亜紀後期(約7000万年前)と考えられている。日本列島が今の形になった2000万年前。今では中央構造線は活発な断層ではなくなっている。
バイクで走ってきた国道152号線は、ちょうどその構造線上に設置されている。走っていると、所々に断層のズレが地層の表面に現れている露頭とよばれる場所の案内板が設置されていて、そこでは断層のずれを見学できる。
大鹿村には村営の中央構造線博物館がある。敷地は中央構造線のほぼ真上にあり、敷地内に構造線のラインを確認できる。何か標準時のある明石天文台みたい・・・。
展示は中央構造線と大鹿村の岩石標本が中心で、屋外にも無造作に岩石が置かれていた。興味のある人は少ないとは思うが、興味のある人には面白い博物館になるだろう。
せっかくなので、中央構造線上にバイクを置いて写真を撮ってみた。こういう境目で写真を撮る行為は、旅の写真ならではとなるだろうか。
他の人が見ても面白くはないと思うが、写真を撮っているときは、けっこうワクワクする。例えば県境とか、国境、赤道などの線上で写真を撮るような感覚になるだろう。
大鹿村からは152号線を一気に北上していく。桜で有名な高遠城のすぐそばを通るので、ここは寄って行こうと出発前は思っていたのだが、時計を見ると、もういい時間。サーキットへ行くのが遅くなってしまう・・・。以前訪れたことがあることだし、止む無く通過。
最後、山を抜ける直前、杖突峠から茅野の町並みと背後に谷津ヶ岳が見えた。なかなか絶景だ。もう少し寒くなり、山に雪が被っていれば、もっとよかったかな。
急がないと、レースが終わってしまう。ってほど深刻ではないが、国道20号に合流すると、寄り道をせず急いで韮崎に向かった。
サーキットに到着したのはレース終了時間の1時間半前。6時間耐久レースなので、もう既に4時間半が経過している。もう1時間ぐらい早く着く予定にしていたので、ちょっと遅くなってしまった。
現在の順位は、中団よりも上位。まずまずの位置だ。友人は、夏の間、サーキットに通って特訓し、更には、心機一転とばかりに、つなぎ(ライダースーツ)を買い替えた。
モニターに表示されているタイムを見ると、トップチームに迫るいいタイムが出ている。昨年の夏までは私と争っている程度のタイムだったのに・・・。もう私では太刀打ちできないだろう。
しかし、ピット作業の様子を見て唖然とした。今回はピットレーンはバイクを押して通過しなければならないルールになったとか。前回接触事故があっての対応のようだが・・・、走ってきた後にタイムを少しでもロスしないように急いでバイクを押すのはしんどいはず。
というより、かなり無理があるルールだ。実際、ピットレーンで転んでいるチームもあり、まさに本末転倒・・・。なんだかな、と思ってしまった。
また昨年のレースでは、転倒者続出でレースにならなかった。それを考慮し、今回は2時間の練習走行証明書が必要となっていた。これはいい判断だと思う。引き締まったいいレースになっている。
とはいえ、そのルールのために練習時間が取れない他のメンバーは参加できず、今回は友人と後輩Kの2人で6時間走り切らなければならないといった過酷な状況になっていた。
手伝いに来てくれた後輩たちとともに見守っていると、スタートから6時間が経ち、レース終了のチェッカーフラッグが振られた。我々のチームもゴールし、無事に完走。
今回の結果は、総周回数が405周。順位は、参加27チーム中、実際の順位が8位、ハンディを入れた総合順位では12位だった。
ここのところ下から数えるほうが早かったり、リタイヤしたりと、成績が振るわなかったので、まずまずの成績に顔がほころぶ。とりわけ夏の間にサーキットへ熱心に通い、練習を重ねてきたことが報われたといった感じで、友人の喜んでいる姿が印象的だった。
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